セバスチャンの回想
セバスチャンはバームベルク公爵クラッセン家の本邸の執事だ。
仕事の立場上、ウィンディーネお嬢様とは頻繁に顔を合わせていたが、私的な会話はほとんどしたことがなかった。セバスチャンの役割は彼らのために万事をつつがなく進行させることなのであって、雇用主との過剰な慣れ合いは必要ない。感情を殺して、できる限り道具のように使われることに注力した。
しかしながら、セバスチャンはウィンディーネお嬢様のことをとてもよく知っていた。皇妃さまのお供としてやってくる侍女や皇室の各屋敷に詰める執事たちが、セバスチャンの執務室で待機中、じつにさまざまなうわさ話をしていくのだ。やれ今日のお嬢様は皇太子殿下とご一緒にあんなことをしていた、こんなことをしていた、おふたりとも仲がよくてほほえましい――
お嬢様の皇太子好きはとても有名だった。ふだんはめったに意思表示をしないおとなしめの少女なのに、皇太子殿下がよその女性と少しでも会話したりしようものなら大泣きで訴える。
その激しい一面は、使用人たちの関心の的にもなっていた。
「フロイライン・クラッセンは、ご自分に自信が持てないのでしょうね」
皇妃さまの侍女がしたり顔で言う。
「若い女性というのは大なり小なり自分が一番かわいいと思っているものですが、フロイラインにはご自分のことをかわいいと思うお心が欠けていらっしゃるのですわ。ご自分のことを肯定的に見る眼を持っていないから、皇太子殿下のちょっとした仕草やお言葉にも、冷たくされたのではないか、嫌われたのではないかと疑心暗鬼になって、過剰に反応してしまう。殿下も殿下で、フロイラインを不安にさせないのも自分の務めだとお考えだから、お言葉が過剰に力強くなってしまう。強い肯定のメッセージをもらえばもらうほど、フロイラインは皇太子殿下に依存する。皇太子殿下は危なっかしい彼女が見ていられなくて、もっと劇的な言葉を使うようになる」
「……お似合い、ということでしょうか」
「ある意味ではそうなのでしょうね。でも、少し悪循環であるようにも感じられます」
セバスチャンは侍女の評価でいろいろと腑に落ちた。それでお嬢様は、あれほど愛らしいのに、まったくそうでないかのようにおどおどと自信なさげにふるまうのか。自分に自信が持てないのはセバスチャンも同じなので、勝手ながら、親近感がわいたことも付け加えておく。
そしてあれは、いつのことだったろう。
つい最近のことだ。
お嬢様が、遊びにいらしていた皇太子殿下を部屋に残して、いきなり屋敷の外に飛び出していってしまうという珍事件が起きた。
逃げるといってもそこはか弱い女性の足、すぐに皇太子殿下に居場所を割り出されて、お嬢様はお部屋に連れ戻されていった。
その日の夜、セバスチャンは執務室で、激しい物音を聞いた。ばたばたとやかましく駆け足で通りすぎながら、女性が激しくむせび泣いている。慌てて追いかけてみると、彼女は屋敷を飛び出して、外の森へとがむしゃらに進んでいくところだった。セバスチャンも、必死に走ってどうにか捕まえる。
相手はウィンディーネお嬢様だった。
「離して、ほっといて!」
「なりません、お嬢様――」
暴れる彼女をなだめていたら、どこからともなく皇太子殿下がやってきて、ふたたび彼女を連れ戻す手伝いをしてくれた。錯乱している彼女も、皇太子殿下の顔を見るなり喜びでいっぱいになった。
深夜でひとが出払っているのもあり、自分の手で紅茶を淹れ、二人が待つお嬢様のお部屋に行ったセバスチャンが見たものは、激しく泣き喚くお嬢様だった。
「わたくしジーク様のことは本当にお慕いしておりますの、絶対に、他の方のことなんて考えられないくらい! でも――でも、どうしてもだめなんです!」
皇太子殿下はいかにも余裕たっぷりという表情で、お嬢様の泣き言を一蹴した。
「何がだめなんだ。昨日のリハーサルは完璧だったろうに」
「あ、あれは、まだ、人がいないから……でも、たくさんの人がいるって思うと、わたくしだめなんです、どうしても足がすくんでしまって……こ、声も、出なくなってっ……」
お嬢様はまた泣き出した。
「わたくし、演説なんて、とてもできません……こんなの、皇太子妃として、失格ですっ……皆さまにご迷惑をおかけして……こんな簡単なこともできなくて……わたくし……」
ジークラインは彼女の悩みを鼻先で笑い飛ばす。
「いいんだよ。お前は俺のとなりにただ立ってりゃいいんだ」
「そんなの、ジーク様がお許しになっても、他の方に申し訳が立ちませんわ……」
「他のやつの言うことなんざどれも寝言だ。聞く価値すらねえ。いつも言ってるだろ? お前は俺の決定に、ただ従ってりゃいい。いいかディーネ、この俺がいいって言ってるんだぜ? これはもう、世界が認めたってことと同義なんだよ」
「でもっ……」
「俺の決定が、世界の決定だ。何にも心配なんかいらねえよ。だからお前は、おとなしく俺の腕に抱かれとけ」
ジークラインの説得に、お嬢様はおとなしくなった。気まずい沈黙が続く。
ジークラインはなおもお嬢様を激励して、セバスチャンに破格の金額のチップを渡し、「深夜に悪かったな」とねぎらいを述べ、紅茶もそこそこに帰っていった。
お嬢様は、多少なりと落ち着きを取り戻しているように見えたが、まだおひとりで残していくには忍びなく、セバスチャンは退室を命じられるまでそこに立っているつもりで、壁際に控えていた。
やがてお嬢様は紅茶を飲み干した。お代わり目的でティーポットに手をかけようとしたので、セバスチャンはさっと近寄っていって、給仕をした。
するとお嬢様は、急に火がついたように泣き出したのだ。