ナリキの過去 1
ナリキは豪商の娘に生まれた。
毎年の誕生日には司教さまや貴族さまが入れ代わり立ち代わりやってきて、ナリキにあいさつをした。彼女が目当てなのではなく、それを口実に父へ取り入ろうという魂胆だ。立派な前掛けをした職人の親方たち、お仕着せの黒服をまとった市参事会のお役人たち。各国の商会の支配人たち。手紙や贈り物も山ほど届いた。お前はうちの姫君なんだと誇らしげに繰り返す父の声を覚えている。
誰もが父と、その背後の富と名声をたたえたが、全員が本心から父を慕っているわけではなかった。
「成り上がりのくせに」
――そう吐き捨てた女性のことは忘れられない。見るからにやさしげな、うら若いその女性は、父に多額の借金があるという男爵家のご令嬢で、パーティに飽きてしまった幼いナリキの面倒を看るとみせかけて、にこやかにたくさんの悪口を吹き込んでいった。
「現実のお金をたくさん稼いだって、あの世にはもっていけないのよ? 地獄行きなの。だからあなたも、死んだあともずっと、苦患の火で焼かれ続けるの。ずっと、ずーっとよ。あなたたちは『異端者』よ」
――成り上がりのくせに。
――お金だけはあっても卑しい身分じゃない。
宮廷すずめたちがささやきかわす陰口は、父の耳に入ることは姑息に避けていても、子どものナリキ相手には容赦なく、むしろ聞こえよがしでさえあった。
――だったら、身分だけあっても、何もできないあなたたちは何?
ナリキはその悪意に対し、相手を見下すことで心を守った。
公爵令嬢のウィンディーネお嬢様と初めて引き合わされたのは、そろそろ基礎的な読み書き計算の勉強が終わろうかという頃合いだった。
父の書いた筋書きによれば、ナリキは公爵令嬢の付き人として行儀見習いをし、それなりの年齢になるのを待ってから、爵位のある男性のところへ、多額の持参金つきで嫁がされるのだという。新興の豪商が目指す典型的な道のりだった。
まずもって素敵な結婚にはならないだろう。相手は金に困って卑しい身分の女なんかと結婚をしたがるような貴族だ。誰があてがわれるにしろ、ろくな人間ではないことは断言できる。
すさんだ気持ちでお嬢様の家に奉公にあがったナリキに、ウィンディーネお嬢様はとても親切にしてくれた。
他人の悪意に染まっていない、とでもいうのだろうか。彼女は相手のやることなすこと善意で解釈する傾向があった。ナリキが嫌味のつもりで「全然公爵家のお嬢様には見えないですね」と言っても、鈍感な彼女はとてもうれしそうにしていた。
おどおどしていて格好悪い。
はっきりものを喋らないところが気持ち悪い。
嫌味に気づかないなんて頭が悪い。
――そういった意味合いを込めていたのだが、純粋培養のお嬢様には通じなかった。
それどころか、逆に「親しみやすい」と言われたと解釈したようだ。
――私と、お友達になってくれる?
なぜそう思うのだろう。これだけの悪意を込めているのに、どうして気づかないのだろう。
決まっている。彼女は周囲から大切にかしずかれ、悪意から切り離されて生きてきたのだ。相手が笑顔で近づいてきても、信用できるとは限らないなどと、疑ってみたことがないのだろう。
ナリキは苛立ちを募らせながら、お嬢様には容赦なく批判を加えていった。
「真の貴族の方は銅貨一枚も持たないって本当なんですね」
――世間知らず。
「真面目なんですね。一生懸命、古いしきたりを守ろうとしてらして」
――要領が悪い。
「お嬢様って、ときどきすごくかわいらしいことで悩んでらっしゃいますよね」
――頭も悪い。
ところがお嬢様は、何を言われても素直に受け止めて、落ち込むそぶりは見せても、ナリキを嫌ったり憎んだりするようなことはしなかった。
「私、あんまり庶民の皆さんのことはよく知らないの。こういう立場だから、誰も私には面と向かって言ってくれないでしょう? 教えてくださってありがとう」
呆れたことに、お嬢様は本当に騙されやすいタイプだったのだ。相手の言葉の裏が見抜けない、相手が何を考えているのかを探ってみようともしない、そうやって駆け引きをすることすら知らない。
彼女の母親、公爵夫人のザビーネがやってきて、ナリキに謝った。
「ごめんなさいね、うちの子、少し危なっかしいの。しっかりしたお姉さんについてもらえて、助かるわ」
彼女の言葉で、自分がお嬢様にあてがわれた真の意味を知った。
ナリキは、「人を疑う」ということをようやく学び始めたばかりの純粋無垢な少女にはうってつけの「教材」だったのだ。きっと公爵夫人はナリキがそれほどウィンディーネお嬢様のことをよく思っていないことも、貴族との関わりにはあまりいい思い出がないことも、すべて知っている。
公爵夫人の思惑通りに動いてやるのは悔しい。
でも、お嬢様のことも好きになれない。
くすぶる毎日が続いた。
「ナリキさんの新しいお衣裳、素敵ですわね~」
「父が、今度の式典で着るようにと……」
「まあ素敵。このデザインなら、エメラルドなんかが似合いそう」
「あらいいですわね~! 首飾りはぜひともエメラルドになさるべきだわ!」
「でも、私、エメラルドは持ってませんね」
そこで話を聞いていたお嬢様が、ふと立ち上がって宝石箱を持ってきた。
「これなんかどうかしら」
そういって取り出したのは、小ぶりながらも美しく装飾されたエメラルドの首飾りだった。
「あらぴったり! 素敵よ!」
「大人っぽいデザインだから、ナリキさんのほうがお似合いね」
「ありがとうございます。でも、持っていないものは仕方ありませんね」
するとお嬢様は、少しだけはにかんで、言った。
「……よかったら、式典用にお貸しするわ」
ナリキは驚いて辞退しようとしたが、彼女は笑って「せっかくお似合いになるのだし、つけてらして」と言う。
ナリキは困り果てて、筆頭侍女を窺い見た。
彼女も微妙な顔をしているが、とがめる気配はない。
――どういうつもりなの?
ナリキにはお嬢様や筆頭侍女の考えていることが分からなかった。侍女とはいえ、使用人にこれほど高価なものを貸し与えるなど、ふつうであれば考えられないことだ。もしもナリキであれば、絶対にやらないだろう。使用人はきちんと管理されている状況下でなければ、平気でうそをつき、盗みを働く。
まだ幼かった頃、ナリキの誕生日プレゼントの荷物の山に、おじいさまから贈られた銀の聖具が含まれているのを見つけて、ポケットにしまった使用人がいた。彼女のドレスはその重みに耐えきれず、途中で無残に破けてしまった。
それを見つけた別のメイドが、『あなたでは罪の重さに耐えられないようね』と言い、その十字架を自分の懐に入れてしまった。
メイドたちはどちらが十字架を所有するかでもめ、事態が明るみに出た。
――商会の荷物も、厳重に帳簿と照らし合わせて管理しなければ、船の積み荷が出港前と合わないだとか、羊の頭数が申告と違うだとか、そういう不正はしょっちゅうなのだ。世界中、どこの国の人夫であってもそれは変わらない。
――人に裏切られたくなければ、初めにしっかりとした契約を。すきのない管理を。
人を使う立場の人間として絶対になくてはならない感覚が、お嬢様には丸ごと欠落している。
馬鹿だ、と思った。
――この子はホンモノの、バカなんだわ。
エメラルドの首飾りのことは、式典の途中で紛失してしまったといって、自分のものにしてしまおう。ナリキはそう思った。なぜなら従業員とは、使用人とは、そういうものだからだ。ナリキもそうやって数えきれないくらい裏切られてきた。
軽蔑とともに笑い飛ばそうとして、失敗した。
疑い、疑われ。だまし、だまされ。おもねる人間の誰が信用できるかなんて分からない。長年雇っていた使用人でさえ信用できない。
そんな風にして、冷えた人間関係のただ中に漬けられて生きてきた。
けれどもお嬢様は、違う。
ナリキのことを友達だと思い、身の回りのものを預けてもいい相手だと思ってくれている。信用できると思ってくれている。
お嬢様はなんて馬鹿で――
かわいらしい人なんだろうと思った。
親密な関係だと認識してもらえる甘さに触れて、呆れながらも、ほだされてしまったのだ。
ナリキはお嬢様からエメラルドの首飾りを借りて式典に出て、それをきちんと返した。
お嬢様は疑うことを知らなくて、甘いところがあるけれども、そんな彼女を支えてあげられる自分の立場を、誇らしく思ったりもした。
死んだあともずっと、苦患の火で焼かれ続ける
「われ目を數ある顏にそゝぎて苦患の火を被むる者をみしも
そのひとりだに識れるはなく 五二―」(ダンテ「神曲」地獄編・第十七歌)
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「(第七環の地獄で)苦痛の炎で焼かれている人を見ても知ってる者はおらず」
→詩はこの後「ただ金貨袋を提げているので強欲な商人と分かる」と続く。