バニラと呪文料理
公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンは婚約者である皇太子のお部屋を訪問していた。
手作りのお菓子を作って定期的に会いにいくのが、記憶が目覚める以前のクラッセン嬢の楽しみだったのだ。
しかし、前世の知識が戻ってからのディーネは少々面倒に感じていた。
皇太子ジークラインの居室にはすでに紅茶のセットが準備されており、あとはディーネの持参したお菓子を並べるだけになっていた。
ジークラインはトングを取ると、ディーネのバスケットから、新作スイーツを取り出して、並べていく。
ディーネははっとして自分の腕をまさぐる。いつの間にかバスケットを取られていた。最初に転びそうになったときだろうか?
「まったく、このおれに手ずから給仕をさせるのはお前ぐらいのもんだぜ、ディーネ」
苦笑しながらやけに高い打点からポットを傾け、紅茶を注ぐ。茶色の液体は長い長い放物線を描いてカップめがけて落ちていく。
「ちょ、ちょっと、こんな高い絨毯の上で、ジーク様っ、こぼしたら大変っ……!」
はらはらするディーネの予想を華麗に裏切って、紅茶は一滴もこぼれることなく白磁のカップに収まった。
「お、お、おおおっ……!?」
ジークラインはさらにディーネのカップも取ると、やっぱりやけに高い位置から再び紅茶を注ぎ始めた。紅茶は魔法のように美しくカップに注ぎ込まれていく。
「おおおおおっ……!」
「まあ、とりあえず一杯」
流れるような動作でカップを手渡してくれるジークラインにつられてディーネがそれを受け取ると、彼はにかりと無邪気に笑って「飲め」と言った。
「……おいしいっ……!」
いい紅茶は人をハイにする。ようやく頭ぴよぴよの混乱ステータスから回復したディーネに、ジークラインはふっと笑った。
「括目して飲めよ。この世でもっとも貴重な紅茶だ。なにしろおれの手を煩わせたんだからな」
「ふぐっ……!」
久しぶりの厨発言がのどにキた。あやうく紅茶が変なところに入るところだったディーネがむせていると、ジークラインは一層ニヤニヤした。
「馬鹿、焦って飲むからそうなるんだ。とにかく、座りな」
言われた通り座りながら、ディーネはちょっと肩を落とした。さっきは動揺のあまりいろいろ口走ってしまったが、今になって言い過ぎたような気がしてきたのだ。
「その……先ほどは失礼しましたわ。助けていただいたのに、わたくしったらお礼もせず……」
「なーに萎れてんだよ。らしくねぇな。このおれが女のやることにいちいち目くじら立てると思ってんのか」
豪快に笑うジークライン。ディーネはなんだかまぶしくて、その笑顔が直視できなかった。
「……けどよ、俺を退屈させるのはどうなんだ? 面白そうなことやってやがんのに、俺には連絡なしってのはつれねえじゃねえか。たまには報告書の一枚でも送ってきたらどうなんだ、ディーネ」
やたらと上から目線で言われて、ディーネはかちんと来る。
「なんで報告書なんか送んなきゃいけないの……私の上司でもないのに……」
その瞬間、今朝がた筆頭侍女から食らった忠告を思い出した。
『婚約者から放っておかれたら寂しくなるものです。でも殿方からそんなことを申し出ることはできないでしょう? ですからディーネさまが気をきかせて、お会いしたいですとこまめに申し上げることが大事なのでございますよ』
「……要するに、寂しかったってこと?」
照れ隠しや格好つけを取っ払った容赦のないまとめに、自尊心が高すぎる男はちょっと気まずそうな顔をした。
――図星か。
ちょっと、かわいいんじゃないの? と思いかけた矢先。
「この世の有象無象の言うことなんざどれも雑音に過ぎねえが、お前は俺を楽しませる希少な存在だ。もう少し俺の側近くに侍る義務がある。そうだろ?」
さらにグレードアップした厨発言を食らって、ディーネは会話を続ける気力をごっそり殺がれ、沈黙した。
なんでこの男はこうなのだろう。もう少しふつうの語彙で喋ることはできないのだろうか?
「……こっちもなんかいい匂いがすんな」
ジークラインがお皿を引き寄せ、鼻を鳴らす。
「これも新商品か? かいだことない香りだ」
ディーネはやや機嫌を持ち直した。
それだ。そこに突っ込んでほしかった。
「ジークラインさまがおっしゃっているのは、おそらく『バニラ』の香料ですわね。この国ではまだ知られていない香料ですけれども、お菓子ととても相性がいいんですのよ。アイスクリームにもチョコレートにも合いますもの」
ディーネがペラペラと説明を始めると、ジークラインはちょっと笑った。
「……なんですの?」
「いや、楽しそうだなと思ってよ。いいぜ? 聞いてやるから続けろよ」
「まあ……」
その言い方だとまるでディーネがおしゃべりを聞いてほしい寂しがり屋のカノジョみたいじゃないか。
なまぬるい笑顔で見守られているのも腹が立つ。
「……どうした? おしゃべりはもうおしまいか?」
「もういいです!」
ディーネがふてくされて持参したお菓子に手をつけ始めると、ジークラインはますますおかしそうに笑った。
「そうかよ。忙しい女だな」
そして彼もディーネが持ってきたお菓子、いちごのクヌーデルに目をやった。
「団子に色がついてっけど、どれがどうなってんだ?」
「ピンクのお団子がプレーンないちごのジャム入り、白いのがいちごのバニラアイス入り、褐色のがいちごのチョコレートガナッシュ入り……です」
「バニラアイス……? 呪文みてえだな……」
この国にはまだバニラのアイスもチョコレートのガナッシュも存在しない。よって彼には外国語の呪文のようにしか聞こえないらしい。