婚約は破棄していただく方向で
走馬灯のようによみがえった幼少期の甘酸っぱい思い出に、現在時間軸の立派な淑女たる転生公爵令嬢ディーネはもんどり打った。
「ちがああううううう! これは恋じゃないいいいいい!!!」
この胸のときめきが恋だと認めてしまうと、ディーネはこの厨二病殿下と生涯夫婦として暮らしていかなければならなくなるのである。
しかも身分が高いがゆえにこの格好も避けられない。
生体にぴったりと張り付く特性を持つ魔法蜘蛛の糸を使ったドレス。
今のディーネは漫画でよく見るあの現象、『あの服、あんなに厚着なのに、すごいエッジの利いた立体裁断だなあ……』を地で行く格好をしていた。スカートとボディスとローブデコルテの三点セットをしっかりと着込んだ、いわゆる『お姫様ドレス』にキャミソール状の下着まで込みなのに、なぜか乳の形は浮き出ているし、スカートは重力に逆らって太ももに執拗にまとわりついているし、おへその下から股関節にかけてはなぜか年中水濡れしたようにべったり張り付いている。なんなんだコレ。どういうデザインだ。こんなの絶対になんらかの悪意を持った世界の創造者とかがデザインしているに決まっている。そしてそいつは日本のオタクだ。間違いない、賭けてもいい。
どうせならもっとちゃんとした服が着たい、ふつうの人とふつうの暮らしがしたい。
「ディーネ、おい、ディーネ!?」
「やめて、寄らないで、さわらないで! この際だから申しあげますけど、わたくしジーク様とは結婚したくありませんの! ですから婚約はいますぐ破棄なさって!」
よーし言ったー!
パパ公爵にはとりあってもらえなかったが、直談判すればいい話だ。
するとジークラインは眉をひそめて、急に何かを悟った顔になった。
「……もしかして、本当に何かの精神攻撃を食らってるのか? まさか、俺の知らない魔術で……?」
「わたくしは正気ですッ!」
「なら、理由ぐらい言うんだな。この俺の何が気にいらない?」
ジークラインは本気で分からない、という顔をしている。
「俺の女になるのは最高の栄誉だろう?」
「そういうところがいやだって言ってるんです!!」
ディーネは頭をかきむしる。だんだん言葉遣いがぞんざいになってきた。しかし気を付けて訂正する心の余裕はない。
「わたくし殿方は控えめな方が好き! ジーク様のように自信過剰な方とはやっていけません!」
ジークラインはやはりまだよく分からないという顔をしていた。
しかし彼は幼少時から十人に一度に話しかけられてすべての内容を正確に理解し、返答したという逸話もあるほどの天才。聖徳太子か。
彼は瞬時にディーネの言わんとすることを汲みとった。
「俺の発言が自信過剰だってことはねえだろ……? 事実を控えめに述べているだけだから、お前の好みからも外れちゃいねえ」
「いやああああ! 厨二病うううううう!」
ディーネは耐えられないぐらいいたたまれないのに、クラッセン嬢としての身体は勝手にきゅんとときめいていた。彼女、俺様何様な皇太子殿下に心酔していたので、自由気ままななおっしゃりようが本当に萌えツボだったらしい。
ディーネにはまったく理解できない趣味だ。
なのに現世の記憶に引きずられて、ちょっとかっこいいと思わされてしまう。
この矛盾が、もう身悶えするほど気持ち悪かった。
「私はふつうの世界に生きたい……ッ!」
「さっきから何を言ってるんだ……?」
ジークラインは何かを思いついたように真面目な顔になり、ぎゅっと彼女を抱き寄せた。
いきなり密着されて、ディーネの心音がはねあがる。
「ジ、ジーク様っ!?」
「やっぱ心配だな……一度医者に診てもらおうぜ? なんか変だし。悪ィけど、ちっと運んでくぜ」
そう言って、彼がディーネを抱きかかえた瞬間のことだった。
突然、部屋のすみにスウッと黒いしみのようなものが浮いて、なにかが光った。
「はッ――!」
気合いとともにジークラインが飛びすさる。たった今までジークラインがいたあたりのすぐ後ろに、太矢がふかぶかとつきささった。
クロスボウ。そして今のは魔法石を使った魔術だ。
高い魔術の教養を持つクラッセン嬢としての記憶を使い、ディーネは瞬時に分析していた。
しかしジークラインの分析力はディーネのはるか先をいく。転移が生じた座標を正確に逆探知、門をこじ開け、魔法石なしで今しがた放たれた太矢をぶちこんだ。
ジークラインは世界でも有数の魔法使いで、その魔力量は化け物クラスであるという。普通の人間には絶対にできない魔法石の補助なしの転移魔法を、彼はやすやすとこなしてみせる。魔法の資質ひとつとってみても超一流のジークラインが見せた奇跡のような神業に、ディーネはまた激しく胸がうずくのを感じた。
太矢をぶちこまれた敵がぺらりとはがれた空間の裏から落ちてくる。ドサリと転がったその敵は、ジークラインが完全に拘束しきるよりも早く、なんらかの方法で自決を決行し、すぐに動かなくなった。
ジークラインは瞬時に敵の魔力のスキャンを行った。
同時にディーネも試行。身分や所属などを割り出しにかかる。人間の使う魔力にはそれぞれクセが出るので、その構成を見ればおおよその国籍や人となりが分かるようになっている。
今回の間者は旧カナミア国、現在は併合されてカナミア諸領のスパイであるように思われた。かの国は先の大戦でワルキューレ国に併呑されてからも、残党が活動しており、たびたび内乱が勃発している。
ジークラインほどの男にもなると、あちこちに恨みを買っているので、スパイに命を狙われるなどということは日常茶飯事なのである。
「……おれに空間転移系統の魔術は効かないって何度試せば分かるんだ? チッ。気分悪ィな」
敵とはいえ身近に起こった死に心ならずも後味の悪い思いをしているジークラインに、ディーネの胸はまたときめいた。
どうしよう。だんだんかっこよく見えてきたんですけど。
安全を確認したからか、ジークラインは慎重にディーネを床に下ろしてくれた。
「あん? ……なんだこりゃ」
ジークラインがふいにスパイの死体を横にどける。すると、その下からつぶれかけの籐のバスケットが出てきた。
「ディーネの荷物か。すまねえ。つぶしちまったみたいだ」
「あっ、そういえば、ケーキ……」
ディーネが慌てて確認すると、バスケットの中身もぐちゃぐちゃだった。これではもう食べられない。
「せっかくうまくできたのに……」
落ち込むディーネを見て、ジークラインはすぐに何かを察したようだ。
「これ、ディーネが作ってくれたやつか」
ガッカリしながらうなずくと、彼は何を思ったのか、つぶれて四散するケーキをつかみとり、ひと口食べた。
「ジーク様!」
「うめぇ」
見た目、およそ美しいとはいえない状態のケーキを、高貴な身分のジークラインが気にせず手づかみで平らげていく。おそれおおくて、ディーネは縮みあがった。
「あ、あの、そんな、無理して召しあがらなくても……」
「無理なんざしてねぇ。ディーネの料理が好きだから食ってる。悪いか」
ちゅ、厨二びょ……いえ、もういいですけど。
ディーネは胸の高鳴りを持て余しながらジークラインが食べ終わるのを見守った。
「……うまかった」
「お……お粗末さまでした」
どぎまぎしながら空のバスケットを受け取った。しおらしくなったディーネを見て、厨二病の皇太子はニヤリと笑う。
「……俺に貢ぎものができて光栄だろ?」
ディーネはせっかく芽生えかけたときめきが急速にしぼむのを感じた。
こ、これさえなければ。これさえなければ……!
ちくしょう! ちょっとかっこいいかなと思ったのに……!
「婚約破棄したいってさっき騒いでたけど、どうかしてただけだよな? ディーネは俺の女だ。そうだろ?」
「いえ、婚約は本当に、破棄していただく方向で、検討してほしいです」
いきなり冷たく言い放つディーネを、ジークラインは困り顔で見た。