続・研究員Aの回想 ~家具と皇太子~
「ちょっとジーク様、威嚇しないで!」
ところがお嬢様は、あの恐ろしい皇太子に向かって、果敢にキャンキャン吠えていた。その度胸だけはすごい。軍隊であんなことやったら確実に三回はぶん殴られている。
「……こういうのは感心しねえな。危険なことをわざわざ選んでするってのは」
ジークラインは意外に女性には甘いらしく、お嬢様には大変に思いやりのあるお言葉をかけていらっしゃった。声色も心なしかやさしい。これが軍であれば『馬鹿野郎二度とすんな!』と鉄拳制裁が飛んでくる場面である。
途中で婚約を破棄するとかしないとかいう単語を耳にしたが、気のせいだろうか。
ふたりはしばし痴話げんかを繰り広げ、突然ディーネがガニメデを盾にして隠れるという暴挙に出た。
殺されそうな目つきで皇太子から睨まれ、ガニメデは直感した。
――終わった。
行く末は大陸統一か世界皇帝かという大物から、しっかりと敵愾心を抱かれてしまっている。
お嬢様はまったく空気を読まずに、婚約を破棄して好きな男と結婚するのだとなにやら持論をぶちあげている。
――いやいや、無理でしょ。
皇太子殿下はどう見てもお嬢様を気に入っている。だからキャンキャン無駄吠えされても怒らずに付き合ってあげているのだ。これが戦時中の幕舎だったら確実に命はない。皇太子は指揮系統に混乱をきたすのを嫌う。序列を乱し風紀を乱す人間を絶対に許さない。処罰をするときの彼は冷酷無慈悲だ。
ウィンディーネお嬢様への応対だけが特別なのだ。
皇太子によると、彼にベタ惚れだったはずのお嬢様が、なぜかこの頃急に反抗的になり、婚約破棄を言い出すようになったらしかった。
――ますますマズい。
他に好きな男ができたのかと勘ぐられても仕方のない状況だ。
そして間に挟まれているガニメデの寿命がガリガリ削れていく音がする。幻聴だろうか。
「ジーク様はどうなんですか? 私を愛していたから結婚しようと思った?」
ガニメデは、もうやめてくれ、と思った。
それは、『どう考えてもそうだろう』としか言えないのである。
しかし、愛しているからどうか結婚してくれとひざを折って懇願するには、さすがにジークラインの矜持が高すぎる。ガニメデとしても、二か国を武力のみで食らいつくした伝説級の男が、この小うるさいお嬢様の足下にひれ伏す情けない姿はあまり見たくないのである。イメージが壊れてしまう。ジークラインにはぜひ半裸の美女を常時五人ばかり侍らせて生活するぐらいの気概を見せてほしい。ガニメデにとってのジークラインは、そういう『規格外』の英雄だった。
「……俺の愛は、臣下に平等に与えるものだ」
案の定、あいまいな返答をした皇太子。
お嬢様はそれを額面通り受け取って、そっぽを向いた。
――お嬢様はひょっとして鈍いのだろうか。
皇太子が帰ったあと、いろいろな意味で危険を感じたガニメデがちょっと突き放した応対をすると、彼女はひどいひどいと喚いた。
「私たち親友じゃない!」
この残念さと、ガニメデが見てきた中でも五指に入る美少女ぶりのギャップ。
お嬢様には友達がいなさそうだと思ってそう進言すると、彼女は心当たりでもあるのか、ガニメデも友達の勘定に入っていると言った。
――鈍いんだろうなあ。
お嬢様には分かるまい。ただの使用人であっても、お嬢様から友達だと言われて、言外の『男としてはまったく魅力を感じない』という宣告を感じ取り、わけもなく傷ついたりする心を持っていることもある――などとは。
もう少し賢い女性かと思っていた。残念だ。
残念だが、やっぱりお嬢様はかわいらしい。かわいらしいので、多少残念でもいいかな、という気になってくるのが、ガニメデとしても辛いところだった。
その後、ガニメデが実験室でひとり後片付けをしていると、また皇太子がやってきた。
前回と同じ、人間技とは思えない転移魔法に驚愕していると、彼はさっと近寄ってきて、不機嫌に言い放った。
「……次はない」
「は……はい!? と、いいますと?」
「次、あいつに危険なものを飲ませてみろ。お前の命はない」
念のため確認しといてよかった。省略部分が恐ろしすぎる。
恐怖のあまり口がきけなくなり、ぎこちなく敬礼を返すと、彼は不愉快そうにガニメデを上から睥睨した。
「……どこにでもいるような有象無象じゃねえか。こいつの何がいいんだか、まったく」
――まずい。
先の大戦でも経験したことがないような、未曽有の危機をびんびんに感じる。
「言っておくが、あれはもともと俺の女だ。今はちょっと冷静さを欠いているようだが、じきによくなる。お前にくれてやるもんは何一つねえ。髪の毛一本たりともな」
「は……はい!」
ガニメデはとにかく必死に身振りで恭順のサインを繰り返し示した。軍隊式の、上司の命令を受け入れたときのやつだ。
「次、お前の不注意で俺の女の価値を少しでも損なってみろ。俺の所有物に瑕疵をつける罪は重いぞ」
――まずいまずいまずい絶対まずい。
皇太子は絶対になにかを誤解しているし、それを解かないことにはガニメデの命はない。
「あ、あの、殿下、俺は……お嬢様にまだ名前を覚えてもらっていません」
「あ?」
威嚇されて、ガニメデは死ぬかと思った。この人怖い。
「お嬢様は、使用人風情の名前を覚えておかれるほど暇ではないのではないでしょうか。つまり、俺は、お嬢様にしてみれば、お気に入りの家具みたいなものです」
「家具か」
「家具です」
皇太子はやや毒気を抜かれた顔でため息をついた。こんなことでいちいち気をもむのも馬鹿馬鹿しいと思ったようだ。
「……邪魔したな」
皇太子はねぎらいの言葉をかけて、消えていった。
――怖かった。
怖かったが、しかし、ジークラインの言動は、どう見ても嫉妬に狂った男のそれだった。
あんな、すべての人間の頂点に立っているかのような英傑でも嫉妬したりすることがあるのかと思うと、不思議な感じがする。しかし、そこをいたずらに揺すぶって蜂の巣から蜂を出す気にもなれなかった。
そしてガニメデは決意したのである。
――もう二度と、お嬢様には物理的に近づくまい、と。
なんともいえない寂しさを覚えたが、それはきっと絶対にあってはならない感情。
なので、見ないふりをして、自分で強引に蓋をした。