研究員Aの回想 ~皇太子殿下の伝説~
錬金術師のガニメデは、先のカナミアを併合した勝ち戦にも参加していた。もちろん、それ以外のいくさにもたびたび駆り出されている。
実際の戦闘にはまったく参加していない。帝国軍に次ぐ第二位の規模を誇るバームベルク公爵軍の後衛として、おもに傷病兵の手当てを引き受けていたのだ。巨大な軍の中央、最も安全な位置に布陣し続けていたので、実物のジークラインが戦うところも見たことがなかった。演説中の彼をはるか後方からちらちらと垣間見た程度だ。それでも、幕舎が連日ジークラインの話題で持ちきりになっていたので、彼がどんな戦いをしているのかはこと細かく知っていた。
兵士は末端の者にいたるまで、みな口々に言うのだ。
あの人こそは本物の英雄。覇道を行くに足ると神より認められし当代最高の勇将であると。
ガニメデはというと、単純に、ジークラインの演説が格好いいので好きだった。何かこう、熱く燃えあがるものがある。華やかな容姿も憧れのポイントだ。
語られるエピソードもまた派手やかだ。
いわく、敵方にわざと捕まり、捕虜となった先で、手足を縛られくつわをされた状態から魔術封印を無理やりぶち破って敵の本陣を丸裸にした。
いわく、その状態で味方の軍に自分ごと本陣を襲わせ、無事に帰ってきた。
いわく、その途中で敵の騎竜兵に囲まれても、武器なし防具なし騎竜なしの丸腰状態から敵の武器防具を奪いながら戦い続け、ついにはたったひとりで敵をせん滅しつくし、生還した。
いわく、三十か所以上手傷を食らってもまだピンピンしていた。
いわく、そのすべてが三十分とたたずに全快した。
――本当に人間かよ。
実際に目の当たりにしたことがないガニメデは、絶対に尾ひれがついた根も葉もないうわさ話だろうと思っていたが、日が経つにつれて考えを改めた。
どう考えてもホラとしか思えないが、その奇跡の逸話を信じ込ませる政治的手腕だけは確からしい、と。
なにしろ彼の名前はすでに英雄の枠を超え、神さまのような扱いになっていて、助かる見込みの薄い兵も、死の床でひたすらジークライン万歳を唱え続けているといった有様なのだ。まるでそうしていれば絶対に助かるとでもいうように。
――あれは不気味だったなぁ。
そんな状態だったから、軍の士気は異様に高かった。どんなに絶望的な状況でも、絶対にジークラインならなんとかしてくれる。誰もが根拠もなくそう信じていたから、死と隣り合わせの布陣であっても敵兵に怖れることなく立ち向かっていく。
ガニメデはそのときしみじみ思ったのだ。
帝国軍は確かに強い。でも本当に強いのはジークラインで、彼がいたらどんな軍でも強くなる。
むしろもう、彼ひとりでいいんじゃないかな、と。
一万二万という大規模な人数をまとめあげ、指揮系統を綿密にコントロールするには、一定の空気を醸成する能力が必要だ。剣の強さや騎竜を乗りこなす技術などを越えた先にある、より圧倒的な能力。言葉でいちいち説明されずとも、ひと目見ただけでこの人に従ってみたいと思わせる才能。カリスマといえばいいのだろうか。ジークラインにはそれがあったし、それをうまく利用する頭脳もあった。
今でもガニメデは英雄譚の半分以上が作り物だと思っているが、大事なのは真偽ではなく、それをあれだけの規模の大軍に信じ込ませた、彼の軍師としての才能なのだと思っている。
何をどうすればそんなペテンまがいのことができるのだろう。ガニメデにはまったく及びもつかないが、それが彼と自分との決定的な差だ。彼にはできて、自分にはできない。ただそれだけだ。
***
お嬢様に乞われて、弱毒性の薬物に火をつけ、吸わせている最中のできごとだった。
タバクという名の草を乾燥させたもので、火をつけて煙を吸引すると軽い興奮剤の役割を果たす。しかし毒性はまったく強くなく、人によっては数度で慣れてしまって効果が薄れる程度のものだった。
純粋培養のお嬢様にはすこしだけ刺激が強かったらしく、ずいぶん過激な効果が現れていたので、ガニメデもちょっとおどろいた。
その騒ぎの最中。
皇太子ジークラインが、突然ガニメデの目の前に現れた。平凡な研究員にとっては半ば虚構の世界の人間であるあの皇太子が、だ。
――転移魔法? どうやって!?
一応、バームベルク公爵のお屋敷にも魔術封印はある。建物でいえば塀や堀を張り巡らせたようなもので、決められた経路以外から強引に突入する場合にはそれを乗り越えるのが大変なのだ。堀を泳いだり、壁をよじ登ったりしている間に人に発見されて御用となる。
それを全部まとめてすっ飛ばしていきなり目的地から目的地に飛ぶなんて、どう考えても無茶だ。
不可能を可能にする天才。生きながら神話と伝説の境目を行き来する男。
その彼がすぐそばに立ったとき、思ったのは、とにかくデカい、ということだった。
――背丈がデカい、手のひら分厚い、首が野太い、胸筋すごい。
なるほどこれが神に愛されるということなのか。もう、見ただけで分かる。これにはどんなにあがいても絶対に敵わない。殺される前にこちらからはいつくばって腹を見せ、犬のようにせいぜい愛想を振りまいておくのが関の山だ。
その彼に睨まれたときは、もう本当に、『詰んだな』と思った。なにしろガニメデは彼の大切な婚約者であるウィンディーネお嬢様と密室でふたりきり、しかも彼女には薬物の中毒症状が出ていてこちらは無傷だ。言い訳無用、問答無用でぶち殺される未来しか見えてこない。