ヤンデレちゃんと俺様野郎
この場合、一番かわいそうなのは婚約者なのにうざがられているジークラインでも絡まれているディーネでもなく、勝手に盾にされて巻き込まれている研究員Aである。
かわいそうな一般庶民のガニメデは、どうしたらいいか分からずにオロオロしている。
「だだだだいたいね、手に入らないとなると急に惜しくなるって気持ちは分かるけど、私はそんな大層なもんじゃないですからね!? ジークライン様ならどんな女性だって選び放題でしょう。わざわざ私に固執することはないんですよ? 私なんて持参金もないし……」
「人の名前は覚えない上に結構落ち着きがないですしね」
「ちょっと研究員A!? あなたどっちの味方なの!?」
「知りませんよ。おれを巻き込まないでください……」
もっともである。
「おれは金に興味などない」
ふてくされたように言うジークラインに気圧されて、ガニメデは沈黙した。ディーネもプレッシャーに負けて軽口をたたく気力が萎えた。類まれなる美形の激おこ顔には、ふざけた空気を全面的に塗り替えるほどの圧倒的なオーラがあった。
「お前は俺との婚約を破棄して、何がしたいんだ?」
ジークラインの質問は、威圧感があって怖かった。
「えっと……好きな相手と結婚する?」
若干おびえながらディーネが答えると、彼はますます不機嫌そうな顔つきになった。
「それは、誰なんだ」
「別に誰ってこともないですが……そういう相手がいたら結婚したいし、したくなかったら独身でいたい」
「なぜおれと結婚したくない。何が不満だ。古今東西どこを探したって俺という実存を上回る相手なんざいやしねえよ。探すだけ無駄だ」
「それ!! その自信満々な態度かな!?」
もう十回ぐらい同じことを言ってる気がする。
――バームベルク公爵クラッセン卿の娘・ディーネには、生まれつき婚約者がいた。
四重冠の紋章をその身に帯びた皇太子は、自分に選ばれる女はそれにふさわしい器でなければならぬと言う。
彼のために在るようにと周囲から期待をかけられて育った純粋培養のお嬢様は、ひよこが刷り込まれた親についていくような純真さで、ずっと彼のことを慕ってきた。
しかしあるとき、そのひよこは、思い出してしまうのである。
前世であれば、誰かと強制的に結婚させられるなんて考えられないことなのだ、と。
もしもクラッセン嬢が彼の婚約者でなければ。
あるいは周囲が有形無形の期待で彼女を皇妃候補の鋳型に押し固め、まだ人格形成もままならぬうちから彼女の価値観をかくあるべしと定めて誘導してしまいさえしなければ。
クラッセン嬢は、もしかしたら、皇太子のことを好きだと思い込んだりしなかったかもしれないのだ。
現に、前世の記憶が戻ったディーネは、皇太子ジークラインのことを完璧な人物だとは感じなくなっている。
クラッセン嬢が周囲の期待に応えようとするあまり、無意識のうちに自分に暗示をかけてしまった可能性もあるのだ。
クラッセン嬢はどちらかといえば、控えめで引っこみ思案で、おとなしい少女だった。
晴れがましい言動をするジークラインに憧れつつも、どこかで面はゆいと感じることは多かったのだ。それが無意識に抑圧された、「この人の言うことはなんだか恥ずかしいな」という感情だとは、クラッセン嬢はついぞ気づかなかった。なぜなら彼女にとって皇太子は絶対であり、恥ずかしいところなど何一つない、完璧な英雄だったのだから。
もしも彼女が、なんの刷り込みもないまっさらな状態で、自分の好きなように結婚相手を選んでいたら、ジークラインとは真逆の相手を選んでいたかもしれない。
クラッセン嬢のようにおとなしい子には、もっと穏やかな人物のほうが合うような気がしてならないのだ。
――という点を踏まえて、ディーネは皇太子の『なぜおれと結婚したくないのか』という問いかけに向き直った。
「ジークライン様はすべての女が自分の思い通りになると思っていらっしゃるでしょう。私は、あなたの言いなりになって結婚するのではなくて、私が好きだと思った人と結婚したい。好きかどうか、これが大事なんです」
ズバーンと意見を叩きつけてやると、ジークラインはふと何かを思いついたように、指先を動かした。
「お前はいつも俺に手紙を書いてよこしてたじゃねえか。俺との結婚を望みこそすれ、不満なんて一度も書いてきたことがなかった」
ジークラインの手の動きに呼応して、転移魔法が発動。
何もない空間から、どさどさどさっ、と、なにかが大量に振ってきた。
絹紐や印璽の装飾から、どうやら丸めた手紙の山らしいと分かる。
ものすごい分量のこの手紙には、もちろん、ばっちり見覚えがあった。
「これ、全部お前が俺に向かって書いてよこしがった手紙だぞ」
「……そのようですね」
「何通あると思ってるんだ?」
「えー……常軌を逸した量ではあるかな……」
「全部読んでるんだぞ。忙しいこのおれがわざわざ時間を割いてやってるんだ。俺は優しいからな」
「それに関しては本当に優しいとしか言いようがないですね」
「最長で二十六巻にびっしり書いてきたこともあった」
「重おおおおおおい! そして怖あああああああい!!」
クラッセン嬢の地雷感半端じゃないけど、このジークラインにしてこの婚約者ありだと思ったらすごいお似合いなような気がするよ! 不思議だね!!
「お前は、ずっと俺に好意を寄せてたじゃねえか。なぜ今になって……」
それを言われるとディーネとしても反論できない。
「じゃあ、ジーク様はどうなんですか? 私を愛していたから結婚しようと思った?」
「はっ……?」
ジークラインは珍しく、ちょっと戸惑ったような表情を見せた。
「……俺の愛はすべての臣下に平等に与えるものだ」
「では、もう、このお話はここまでにしてくださいませ。一年後にはきっちり約束を守っていただきますから」
ディーネがつーんと顔を背けながら言うと、ジークラインは説得を諦めたのか、返事をしなかった。
「ていうか、ジーク様、なんで今ここにこれたんです?」
ディーネは素朴な疑問を口にしてみた。
「タバコっぽいものの人体実験は、まあ、確かにちょっとやりすぎだったかもしれないですけど、なんで私がピンチだと分かったんですか?」