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ガニメデの履歴書

 ガニメデは貴族の三男坊だ。


 実家で道楽の研究に明け暮れていたら、見かねた両親に追い出されてしまったのが放浪の始まりだった。

 ガニメデの名誉のために自己弁護をしておくと、実家で何も遊んで暮らしていたわけではない。錬金術の勉強をしていたのだ。続けさせてもらえていれば数年後には黄金ができる予定だったのに、偉大な研究への投資を打ち切るなんて、父さんはなにも分かっちゃいない。不平をもらしていても腹はふくれないので、仕方なく怪しげな薬売りの真似事などをしていたら、本物のほうの薬売りのギルドに目をつけられた。この世界のあらゆる職業はギルド制になっていて、乞食でさえもギルドに入ってからでないと開業してはいけないという決まりになっている。ガニメデは薬売りのギルドにみかじめ料を払っていなかったのだ。それでアポテケやテリアカ売りなどから教会に訴えられた。『こいつは無許可で薬を売っている。きっと魔女のたぐいに違いない』


 薬売りのギルドから、こいつは薬売り協定の違反者だといって教会に突き出されると、どうなるか。

 メイシュア教会に異端者――魔女として火刑にされるのだ。


 ――あれはめちゃくちゃ危なかった。


 もう少しでこんがりローストされるところだったガニメデを救ってくれたのはバームベルクの公爵さまだった。公爵さまは世界各地の教会から異端者を探してきては保護をするという奇特なことをなさっている方だった。異端者ばかり集めて大丈夫なのか、公爵さまは捕まったりしないのかとハラハラしたが、教皇さまに毎年欠かさず心をこめた贈り物をしているから大丈夫なのだという。世の中は結局金か、などと腐る気持ちは、全然、湧いてこなかった。長い放浪生活の果てに、もはや養ってもらえるのならなんでもします、というところまでプライドがなくなっていたのだ。ガニメデには冗談でなく公爵さまが救い主に見えた。


 公爵家の暮らしは使用人待遇でも涙が出るほど快適だ。もうここに骨をうずめてもいいとさえ思っている。三男とはいえ甘やかされて育った貴族の嫡子に自活の生活はハードルが高すぎた。


 公爵さまの長女、ウィンディーネお嬢様のことは、実際に会話してみるまでほとんど知らなかった。年に一度、冬至の祝祭のときにモミの木の下で遠巻きに見かける程度の遠い存在――彼女個人にはさほど興味はなかったが、ひとつだけ気になっていることがあった。


 彼女はあの戦神、四帝国の後継者たるジークラインの婚約者なのだ。


 ジークライン。誰もが名前を知るあの英雄の奥方としては、ウィンディーネお嬢様はやや頼りないかに見えた。


 公爵さまが突如としてお嬢様に領地の経営を任せると宣言してからしばらくのち。

 彼女はガニメデの研究結果を見せろと言ってきた。

 そのときのガニメデは正直、反発心を抱いていた。刺繍とダンスと外国語のルーチンワークで育った箱入りのお嬢様に、自分の研究の何が分かるというのか。いかにも儚げな外見に惑わされて、お嬢様をあなどっていたことは認めなければならない。これでもガニメデは物心ついたころからずっと錬金術が好きで個人的に研究を重ねていたのだ。そう簡単に門外漢にも理解できるようなものではないと自負していた。しかし。


 ――彼女の錬金術の知識はガニメデのはるか先を行っていた。


 なぜそんなに詳しいのかと、焦って尋ねたガニメデに対するウィンディーネお嬢様の返答は以下のようであった。


「えーと、ほら、あれよ。未来の皇妃教育が厳しかったから。ジーク様のおかげね」


 いまどきの大帝国の皇妃は錬金術にも精通していなければならないらしい。ガニメデは本当にビビッた。これも戦神・ジークラインの方針なのだとすると、彼はとんでもない男だということになる。


 ガニメデはこのとき、負けたと思ったのだ。ジークラインに、完敗した、と。

 知力体力魔力に財力、あらゆる項目で勝てるだなんて思ったことは一度もないけれども、それにしたって錬金術の知識で負けたのが決定的だった。あるかないかのプライドは完全に粉々にされてしまったのだ。


 そしてしみじみと思った。

 ジークラインのように優れた男には、ウィンディーネお嬢様のような非の打ちどころのない嫁が来るものなのだ、と。


 なんてうらやましいのだろう。

 ウィンディーネお嬢様は錬金術の話ができて、かわいくて、しかも料理だってうまいのだ。


 ――俺にもああいうお嫁さんほしい。


 パン種に代わる新しい膨張剤の実験が成功したあの日、感動もしたが、実は少し寂しくもあった。

 ウィンディーネお嬢様が失敗作のパウンドケーキをガニメデに食べさせるときの、あの申し訳なさそうな顔にはとても悶えさせてもらったのだ。新婚さんごっこのようだなどと思っていたことは生涯秘密にし、墓場まで持っていかねばならない。


 なにしろ彼女は皇太子の婚約者。

 使用人風情のことは眼中にもないのだから。


 ――その証拠に、ウィンディーネお嬢様はいっこうにこちらの名前を覚えてくれない。


 彼女のような大貴族にしてみれば、弱小国のそれなりな貴族のヤンガーサンなど、鼻にも引っかけない存在なのだろう。


 分かってはいても、たまにやりきれなくなった。


「研究員A! こないだの実験どうなった? 肉片を密閉するやつよ」


 自分の名前は研究員じゃない、とぶつくさ返しつつ、ウィンディーネお嬢様に相手してもらえるとなんだかんだで勝手に顔がニヤけてしまうのが、自分でも腹立たしいところだった。




アポテケ

ドイツ語。中世の薬草師。


テリアカ

約六十種類の生薬を混ぜ合わせたトローチ。中世ヨーロッパでは万能解毒薬と信じられて広く販売されていた。


貴族のヤンガーサン

貴族出身といえど爵位や財産の継承権をまったく持たない次男、三男のこと。


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