結婚式(1/5)
婚礼の始まりを告げる鐘が鳴り響いている。教会中の鐘という鐘を突き鳴らす音は、バームベルクのどこにいても聞き分けられた。草原を渡る羊飼いが遥か彼方の大聖堂を見上げ、晴れ渡った空の中でブドウの枝を剪定する農夫がふと腕を止めて音に聞き入る。井戸で母親の水汲みを手伝っていた若い娘が、羨むような声を上げて、くたびれた前掛けのしわを気取った手つきで整えた。
まもなく結婚式があることは、すでに帝国の隅々まで告知されている。
ディーネは娘時代最後のときを自宅の大広間でまんじりともせずに過ごしていた。
会場には親族一同がずらりと勢ぞろいしていて、誰もが赤と青のリボンで作った十字章を身に着けている。赤い色が皇帝家を、青い色が公爵家をそれぞれ象徴しており、交差させることで両家の結合を表していた。
ディーネは手持ちの衣装の中で一番上等な服を着せつけられている。この服を脱ぎ、ウェディングドレスに袖を通せば、もうこの家の娘ではなくなってしまう。
まだ儀式の一番初めだというのに、筆頭侍女はすでに泣いていた。顔を覆うヴェールを手でちょいと持ち上げては、ハンカチで涙を何度も拭っている。年を取ると涙もろくていけない、とは本人の談だが、ディーネにはあまり笑えなかった。思い返せばジージョにはこれまでにさんざん苦労をさせてきた。一時は婚約の破棄まで行きかけたのだから、心労は察するに余りある。さすがに申し訳ないと思ったディーネがおとなしくしているせいか、侍女三人娘も借りてきた猫のようにおとなしく、神妙な顔をしていた。
結婚式は日没後から開始される。より正確に言うと、教会の典礼では日没が一日の始まりとされているので、日没から『明日』が始まり、『明日』から結婚式が始まることになる。
儀式の開始までいましばらくの時間があった。
ディーネはジークラインを探して辺りを見渡したが、姿を見つけられなかった。自宅の門戸は大きく開け放たれており、庶民、貴族の区別なく、誰でも入ることができる。花嫁の門出を祝って、訪問客がひっきりなしに現れるので、ディーネはその場を動くことができなかった。
「おめでとうございます、公姫殿下」
またひとり、見知らぬ庶民が現れて、ご祝儀の銀貨を銀製の大皿に置いていった。かたわらにいたディーネの親戚が大皿の中身をあわただしく麻袋に詰めたはしから、また違う客がやってきて、ガチョウや羊を献納した証として『錫の札』を置いていく。ご祝儀やプレゼントと引き換えに渡される赤と青のリボンが入場券となり、婚礼の宴のご馳走に預かれるとあって、来客は満員御礼の様相を呈していた。
ディーネは贈り物を受け取るときの礼儀として、ひたすらひざまずいている。このままだと日没までずっとこの姿勢かもしれない。
「お嬢様の前途が幸多からんことを祈って」
何百回目か知れない挨拶に、ふと聞き覚えのある声だと感じて顔をあげると、そこには家令のハリムがいた。がっしりとした大柄の男性で、浅黒い肌と精悍な面構えをしている。
「ささやかですが、お嬢様がお好きだったイレス地方のチーズを百ばかり献納いたしました。しばらくはお楽しみいただけるかと」
ディーネはなんと答えたらいいのか分からなかった。今日のお祝いはあくまでも個人からの心づけなので、その人にできる範囲のものを贈る習わしだ。今回ならチーズが一つか二つあれば十分お祝いになるところなのに、軽く一年分ぐらいの量をくれるとは、どういうつもりなのだろう。
「本当ならワインやりんご酒もおつけしたかったのですが、あまり出すぎた真似をして皇太子殿下の機嫌を損ねても恐ろしいですからね」
「ジーク様、やきもち焼くかしら?」
ディーネは一生懸命思い浮かべてみようとしたが、ちっともピンとこなかった。
「実感がわかないのも無理はありませんね。あの方であれば、私に当たり散らすときは必ずお嬢様がお見えにならないところでなさるでしょうから。恐ろしいことです」
まるで本当に起きたことのように言うハリムがおかしくて、ディーネはくすくす笑ってしまった。
「……あのね、ハリム。私あなたにたくさんお礼を言わないといけないことがあって」
今回、ハリムは新居に連れていけなかった。公爵領を管理できる人材が他にいなかったのである。そのせいもあって、ハリムと離れがたかったディーネは、ぐずぐずと話を長引かせていた。
長くは引き止めていられない。後ろで順番待ちの列ができつつある。
「私、あなたがいなかったら、きっと何もできなくて、途方に暮れてた」
ハリムは苦笑した。見慣れた顔に懐かしさが込み上げて、ディーネはどうしようもなくなった。
「私はお手伝いをしたまでですよ。私がいなくてもきっとお嬢様は成すべきことを成し遂げていたはずです。でも、そうですね。きっとお嬢様がそういう方だからでしょう。あれは、私にとっても忘れられない日々でした」
ディーネは涙が出そうになったが、我慢した。明日はウエディングドレスのお披露目をするのに、まぶたが腫れていては台無しだ。
「いつでもお気軽にお戻りください。お嬢様の好物をご用意してお待ちしております」
「ううー……!」
泣かせないでほしいと思ったが、人のいい笑顔を浮かべた悪魔は薄情にも後ろの人に押されるようにして去っていった。もっと話をしていたかったが、どうしようもなかった。
次にやってきたのは顔見知りの農民の女の子、ソルだった。白いワンピースの晴れ着もまぶしい、ぷにっとしたほっぺたの、十に満たない女の子だ。
彼女が婚礼のお祝いに携えたのは、刺繍入りのナプキンだった。本人は『下手なのでお見せするのが恥ずかしい』としきりに渋っていたが、実際に広げてみると、幾何学的な小花模様がいくつかと花嫁のイニシャル、結婚する年月などがきちんと入った、立派なものだった。
「びっくりしたわ。お裁縫、すごく上手になったのね!」
真っ赤になって照れているソルがあんまりにも愛らしいので、新居のどこかに飾って、彼女も呼んであげようとディーネは思った。
次にやってきたのはナリキの父親、豪商のゼニーロだった。彼は珍しい色合いの絹織物を二十枚もくれた。彼と提携した商売はいずれもうまく行っているが、ディーネが思っている以上に儲かっているのだろうか。ゼニーロは今後ともごひいきに、と商売人らしい台詞を残して去っていった。
その後も料理長やら建築家やらが次々とやってきてはお祝いの品を置いていった。
来客は引きもきらなかったが、そこで日没となった。ディーネは贈り物の管理を代母に任せて、別室に急ぐことになった。ろうそくの点灯係を務めている魔術師がステッキの一振りでシャンデリアに灯をともす。ディーネが魔術師の前を横切ると、気を利かせたつもりか、彼は壁という壁のろうそくをディーネの歩みに合わせてひとつずつ点灯していった。途中ですれ違った楽師が歌を歌ってくれる。『かわいい花嫁さん、さあ扉を開けておくれ。花婿のお迎えだよ』あちこちで歌う声がし、ステップを踏み鳴らす音がした。
二巻は明日(十二月四日)発売です
書影や特典の詳細は活動報告にまとめておきました
どうぞよろしくお願いします




