聖女祭の夜(10/13)
「誤解だ、ディーネ」
婚約者のジークラインがややうろたえた声を出す。
やっぱりか、と公爵令嬢のディーネは思った。
付き合いでダンスの相手を務めたのだとしても、彼だって男だ。美女にしなだれかかられたら悪い気はしないだろう。
まるで浮気を見抜かれた男のような、わかりやすい彼の動揺を目の当たりにして、ディーネはますます頭に血が昇った。
「だ、だってわたくし見ましたもの!! 楽しそうに踊ってらっしゃったんですもの!! 婚約者のわたくしを差し置いて!!」
ディーネだってこんなのはみっともないと思うけれども、喚くのは止められなかった。
「しかも、婚約者なんていませんって顏で、平然としてらしたわ!! わたくしというものがありながら!!」
婚約者以外の異性に触れると痛覚に刺激が走る魔法とは、いったい何のためにつけられているのか。ああいう場面を避けるためではなかったのか。
彼がミルザに触れるたびに、身も心も痛めつけられた。光景だって目に焼きついている。聖女風のきらびやかなスカートをひらひらさせて踊るミルザと、隙間からのぞくきれいな足。ディーネだって足は綺麗だと褒められることはあるが、彼女のそれはもっと成熟した大人の色香を放っていた。
ディーネがどんなに欲しくても手に入れられないものだった。
嫌な記憶ばかりが蘇る。
かつてヨハンナたちからは、ディーネのような魅力の乏しい娘では彼を繋ぎ止めておけないだろうとずっと言われていた。
夏ごろにも、少し大胆な水着で行ったら、ジークラインから服を着ろと叱責された。
この国は政略結婚で、パートナーに恋人のような愛情を求めるのはマナー違反だと言われている。いくらディーネが彼を好きだからといって、彼もそうとは限らない。義務で結婚するだけの相手に、甘い関係を期待したり、まして無理強いしたりしてはいけないと、何度も諫められてきた。
以前、敵国の処遇を巡って見解の違いでもめたときには、いかにジークラインといえども、父である皇帝には逆らわないようにしているのだと語っていた。
そして今日の、ダンスを強要する皇帝陛下だ。
ジークラインがどんなにディーネを大切に思ってくれているとしても、陛下が命じたら、彼はあっさりと他の女にも手を出すのではないか。
疑念が際限なく膨らんで、ディーネは爆発した。
「――そんなに……」
イライラむかむかする衝動に任せて、ディーネは太ももに手をかけた。
「そんなに何も穿いてない足がよろしいのなら、わたくしだって脱いでさしあげますわ!」
不思議な力で皮膚にぴたりと吸いつく、薄手のストッキングの片足を、ディーネは豪快にずるりと引き下げた。靴ひもをしゃにむに引っ張って拘束を緩め、爪先をめちゃくちゃに振って靴ごとストッキングを抜き取る。
ジークラインは何がなんだか分からないという顏でディーネのすることを眺めていたが、もう片方の足に手をかけたところでようやくハッとした。
「分かった、分かったからやめろ!」
いったい何が分かったというのか。ディーネだって自分の行動が理解できない。破滅的な衝動に強くかられていた。勝手に涙が出る。
「ど、どうせジーク様は、わたくしの足なんてご覧になりたくないのだわ……!」
「そんなこと言ってねえだろ? 落ち着けって……」
「結婚したって、どうせすぐにわたくしに飽きて、他の女性のところにお行きなのでしょう!?」
支離滅裂なことを口走っているのは分かっていても、自分でも止められなかった。
「だったら、どうして気を持たせるようなことなんてなさるんですの!? こんなことならあのとききれいさっぱり婚約を破棄してくださったらよろしかったのですわ! わたくしだけだなんておっしゃらなければ期待だってしなかったのに!」
ジークラインはろくに反論もせずに、ディーネをじっと見つめている。
いつも口数が多くて大仰で、何かというとディーネの言葉を否定したがるジークラインが、肝心なときに限って黙っているものだから、ディーネの苛立ちはさらに増した。
「……やっぱりわたくし実家に帰らせていただきます! せっかくですから申し上げておきますけど、そう簡単に妾が持てるだなんてお思いにならないでくださいましね! 使えるものはぜーんぶ使って妨害してやるんだからー!!」
せっかくの捨て台詞は、あんまりサマにならなかった。
我ながら格好悪いと思いつつ、ディーネは片足の靴を脱いだ状態で、そのまま廊下を走って逃げた。
ジークラインがあとを追ってこなかったので、ディーネは頭に来て、本当に彼の部屋を経由して自室に戻ってやった。
小姓たちも宴の給仕で出払っていたので、変な格好を見られなかったのだけはありがたかった。
***
公爵令嬢が自暴自棄気味に捨て台詞を残して去ったあと。
「……と、いうことだそうですが」
ジークラインが水を向けた方角、廊下の向こうから、のっそりと姿を現したのはワルキューレ皇帝だった。
一部始終を覗き見していたことは、ジークラインも最初から気づいていた。
「ご満足のいく結果でしたか?」
皇帝はどこか気づかわしげな視線を息子に寄越した。
「……いやあ、すごいね。あの子。うるせえのなんの」
宴会場からかすかに喧騒が聞こえる。人気のない廊下で、皇帝の口ぶりは最高権力者のものではなく、普段のものに近くなっていた。
「猟犬だったらうっかり杖で殴り殺してるところだった……ああ、いや、冗談よ。怖い顏しない。わし女の子には手をあげない主義なのよね」
はたで聴いていたミルザが怯えた様子を見せたので、皇帝はそちらに向けてにっこりした。女性であれば誰に対してもうやうやしく礼をするのも、彼の趣味によるものだ。
ミルザに会場へと戻るように優しく諭し、人払いを済ませてから、皇帝はジークラインに向き直った。
「しかしな、息子よ。わしが結婚するように仕組んどるわけじゃし、こんなこと言うのもなんだが……お前さん、ホントにアレでいいの?」
皇帝の口ぶりは、心から息子を案じている、といった風だった。
「いやもう、どう見ても良妻ってタイプじゃないよね」
「……何をもって良妻とするかにもよります」
「それもそうだわな。ま、農家のおかみさんならいいんじゃない? がめつくて、よく働いて、甲斐性なしの旦那さんの浮気もよく見張れて……」
ジークラインには言い争うつもりもなかった。
彼女の美点をいくら並べ立てたところで、皇帝の意見を変えさせることはできないだろう。
代わりに、皇帝にとってのメリットを述べておくことにする。
「私には見張りができる妻がいるくらいが、陛下にとってもちょうどいいのではありませんか?」
「ははは。それもそうだわな。わしとしてもその方がよい。小粋なことを抜かすでないわ」
皇帝はひとしきりおかしそうに笑ったあと、ふと真面目な調子でつぶやいた。
「……あの子、チェルリクに友達でもいんの?」
「いいえ……? 知己は皆、ワルキューレ宮廷の範囲を出ません」
「うちにチェルリク人は出入りしてないよねえ。バームベルクのもチェルリクに友達がいるとか聞いたことないし」
皇帝は思案するように口元に手を当てた。
「……あの子、いったいどこでチェルリクの料理なんか覚えたんだろうね」
「料理は彼女の趣味ですから、レパートリーにあったのかもしれません」
皇帝は疑わしげな視線をジークラインにやった。次に発した声は、注意深く隠されてはいたが、どこか探るような調子があった。
「……趣味でチェルリク風の白鳥の丸焼きも作るの? 大貴族のお嬢さんが?」
それが異常であることは、ジークラインも承知していたが、できる限り何でもないという顔をしていた。
「あの子、去年の宴会もほとんど仕切ってたって聞いたけど、間違いない?」
「はい」
「……わしもいくつか食ったけどさ、どう見てもあれはワルキューレのレシピじゃないよね。明らかにどこかで料理の技術を仕込まれてきてる。……変な子だね。なんでうちの宮廷料理人より美食にくわしいの?」
彼女は奇妙なものを知っている――知りすぎている。




