殿下、拗ねる
大きな手のひらには合わないデザートサイズのフォークが、野卑な美青年の口元に運ばれる。
ひと口でケーキの三分の一近くを食らって、ジークラインはカッと目を見開いた。
「――なんだ、これは……!?」
「チョコレートの苦味と土台のスポンジケーキの軽さの競演。ジークライン様のお口に甘いだけのケーキなどお似合いになりませんわ。お召しいただくのなら、精緻な絹織物よりもなお作り込んだケーキでなければ」
ディーネが前世の日本人としての記憶を取り戻す以前から、クラッセン嬢は基本的なスペックがやたらと高かった。料理番組ばりの解説をつけることも造作もない。
破顔一笑。ジークラインはとろけるような笑みを見せた。
ディーネの視界の隅で誰かが倒れた。失神者が出るなんて、世界的人気のアーティストのライブでも滅多にないことである。どれほど崇拝されているのだ、この男は。
「やるじゃねえか……! このおれの賞賛を受け取れ、ディーネ」
「ありがたき幸せに存じます」
やや芝居がかって、舞踏会でのあいさつのように服のすそをつまみあげると、会場はやんやの喝采につつまれた。
「よく分からないが、ものすごくウマいらしいぞ」
「いいなあ、俺も食ってみてえ……」
「自分で作ってるもんの味が分からないって不安だよな」
ジークラインはやれやれ、といったように肩をすくめた。
「皇宮の警備に穴をあけたところは気に食わねえが、まあいい。お前と、お前の菓子作りの腕前に免じて許してやんよ」
彼が直接『許す』と口にしたからには、この件でのこれ以上の追及はない。魔術師や飲食部門の各セクションの上長たちはほっとしたような顔をした。
「ようしお前ら、どんどん作れー!」
料理長が号令を下し、シェフたちの士気が向上したところで、ジークラインがのそのそと無防備にディーネのところへ寄ってきた。
「なんだ、ディーネ。最近姿を見せねえと思ったら、ケーキ屋に転職したのか?」
「ケーキ屋ではございませんわ。これも資金稼ぎの一環ですのよ」
「ふうん、ケーキ作って資金稼ぎねえ。うまく行ってんのか?」
ジークラインの口調は純粋に心配している風だったので、ディーネも挑戦的に返すのはやめて、素直に打ち明けることにした。
「一年後をお楽しみに……と申し上げたいところですけれども、正直に言って苦しいですわね。まず、バームベルク公爵家の借金がいただけませんわ。大金貨で九千九百九十九万枚もあるそうなんですの。そちらを返さないことには、わたくしの持参金などはした金でございます」
「九千九百九十九万枚だぁ? なんでそんなべらぼうな金額になってやがんだ。利子だけで毎年三千万ぐれえ増えるじゃねえか。無理だな。試合終了だ。お前の負けだろ、ディーネ」
そう言うジークラインは、なぜか若干うれしそうだった。
「勘違いなさっては困ります。利子が三千万に上るわけがありませんわ。来年の期日で二千万ほどの予定ですもの……」
ジークラインはニヤリと笑う。
「二千万も三千万も、変わらねえよ」
「……………………そう……ですわね……」
絶望にかられて遠い目をしつつ、なにかがディーネの心に引っかかった。
もちろん、二千万と三千万は全然違う。金利が二割と三割では大違い、などというのは身近に銀行があって、それを利用したことのあるディーネの感覚だ。
しかしそれが、この、文化的には発展途上のこの世界にも常識として通用するものだろうか?
たしか地球でも、年間の金利が一定倍率を超えてはならないという法律ができたのは現代に入ってからだったような気がする。
よく考えたら、毎年三万の地代収入しかない相手に一億も貸し付けるなど無茶苦茶だ。現代日本ならば融資に関する法律で、収入が一定未満の相手に無限に貸し付けてはいけないと決まっているが、この国ではどうだろう。融資に関する法律は、あいにくとクラッセン嬢の知識にはなかった。
これは一刻もはやく確認するべきだ。法律に反しているのなら、うまくすれば借金をなかったことにできる。
金利が高すぎるのなら、もっと安くで貸してくれる銀行家に一括で一億を借りて、高い融資はすべて返済してしまえばいいのでは?
前世知識でいうところのおまとめローンというやつだ。
「どうだ、ディーネ。そろそろ誰かの手助けがほしくなってきた頃じゃないか?」
ジークラインの嫌みったらしい質問で、ディーネは黙考から引き戻された。
「わたくしを憐れんでくださいますの? お優しいこと」
ジークラインはちょっと照れたように目線を外した。
「そりゃ、お前は危なっかしくて見てらんねえからな」
それからぶっきらぼうに続ける。
「……皇妃になれば、そのぐらいの金は一瞬で」
「絶対にお断りいたしますわ」
ジークラインはちょっとすねたように目を細めた。そういう顔をすると年相応でかわいいなと思わないでもない。この完成された筋肉質な肢体を持つ美貌の男は、こう見えてもまだ十八歳なのである。
「ふん、まあいいぜ。お前が泣きついてくるのを楽しみにしといてやるよ。おれは寛大だからな」
ジークラインは相変わらず厨くさい決め台詞を残して、さっと出ていった。廊下ですれ違ったらしき使用人たちから、悲鳴と『万歳』のコールが聞こえてくる。
――あれさえなければなぁ……
ディーネは残念なイケメンのジークラインを見送りながら、ため息をついたのだった。