聖女祭の夜(4/13)
白鳥はワルキューレで出される宮廷料理の中でも最高級の素材に当たる。
それを口にする異国の姫君がどんな反応をするのか、誰もがそれとなく注意を向けていた。
ショウガベースの黄色いソースがたっぷりかかった白鳥を口にして、ミルザは顔色を変えた。
「からい! 酸っぱい!」
ミルザは生まれて初めて食べたかのように、大げさに騒いで水を一気に飲み干した。
ワルキューレ宮廷の料理は酢などをふんだんに使って酸味をきかせることが多い。
スパイスだってたっぷりかける。これは何も珍しいことではなく、彼女の母親の生国であるというハルジアでも同様にスパイスが珍重されていたはずだ。
彼女がこうした宮廷料理を一度も口にしたことがないはずないのである。
皇太子の気を引きたくて世間知らずを装うにしても、やりすぎというものだろう。
もうミルザにはジークラインに話しかけてほしくない。嫌悪感でむかむかする胸を押さえて気を落ち着けようとしていたら、ふと前世のことを思い出した。
――そういえば、遊牧民の料理って塩だけで調理することが多かった、ような……
シベリアなど、寒冷な地域に分布しているので、保存技術を発達させる必要がなかったことなどがその理由だ。
――チェルリクも遊牧民、だよね……
遊牧民は総じて水を浪費しない傾向がある。農耕民族のように、いつでも水のわきでる井戸があるような生活はしていないからだ。最小の家財のみを持って常に移動している彼らは、明日飲める水のあてもなく、乾燥し痩せた土地をさすらう。一滴だって水を無駄になんかできないのだ。
それならば、手を洗う習慣がない可能性だって十分に考えられる。
同様に、余分な調味料を持ち歩く余裕がなければ、自然とスパイスの少ない、質素倹約の食生活になっていくだろう。もしかして、ミルザもそうした生活を送っていたのではないか? 主に魔物狩りを生業としているチェルリクの民に、どこまで遊牧民の常識が当てはまるのかは疑問だが。
白鳥を喜んで食べるミルザを見据え、ディーネはひとつ深呼吸をした。
――落ち着かなくちゃ。
ジークラインが宮廷の女性から色目を使われる場面など、この先無数にあるはずだ。そのたびに妬いていたのでは政務どころではない。
ミルザに向けて微笑むジークラインを目の当たりにして、思考が真っ白になりかけたが、もう一度落ち着かなければと自分に言い聞かせた。嫉妬で目を曇らせて、状況判断を誤ってはいけない。きちんと考えなければ。
ミルザが初見で美男子の皇太子に惹かれているのは誰の目にも明らかだろうが、彼女にどれほどの熱意があってそうしているのかはまだ分からないではないか。案外、うるさ型の正妻(予定)がいると知れば手を引くような、ちょっとした出来心での行いかもしれない。
――このまま黙って見てたって、何にも変わらないじゃない。
ミルザの発言の真偽が分からないのなら、質問して確かめてみればいいだけのこと。彼女が礼儀作法や上下関係にこだわるタイプであれば、不躾に会話に割って入ったことで怒らせてしまうかもしれないが、先ほどディーネに裁縫が苦手かと聞いてきたときの話し方からすると、それほど堅苦しい作法にはこだわらないように見えた。
ディーネは勇気を振り絞って、声をかけてみることにした。
「ねえ、ジーク様。どうせなら、白鳥の頭もミルザ様に召し上がっていただいては?」
完璧なるマナー違反ではあるが、ミルザは怒ったりはしなかった。代わりにぱっと目を輝かせる。
「まあ、頭をくださるの!?」
「いや……しかし、こいつは……」
白鳥の頭は首に次ぐ珍味で、上級のゲストに優先的に振る舞われる部位ではあるが、何しろ見た目がグロテスクなので、女性が好んで食べることは少ない。
しかしミルザは騎竜民族。狩猟を生業とする民族は、どこもたいてい、肉をひとかけらも無駄にしないような食文化になっている。つまり――
「私、鳥の脳みそ大好き!」
獲物の脳や目玉も、めったに食べられないご馳走と考えるのだ。
ジークラインは意外な返事に驚いたらしく、ディーネとミルザを交互に見ている。
――ジーク様もご存じなかったのね。
現在、チェルリクとワルキューレの間に国交はない。チェルリクのことはほとんどが謎に包まれているのだ。ディーネも確証があったわけではなかったが、地球と食文化が似通っているのではないかと考えての提案だった。
――いける、かも?
おそらく彼女の嗜好や文化について、この場で一番うまく話を合わせていけるのはディーネだろう。会話にそれとなく割って入るには十分すぎる口実だ。話の流れをコントロールできるのなら、チェルリク皇女がジークラインに深入りするのも防げ、それでいて彼女のメンツを潰すこともない。
ディーネはもう少し喋ってみることにした。
「ワルキューレでは脳みそをパテにして食べることが多いんですのよ。チェルリクではどうかしら?」
「細かなお塩で食べますね。私はお塩がなくても好きですけど」
「まあ、何もつけずに食べるの?」
話を聞いていた皇太子や周囲の貴族の顔にさっと影がさしたのを、ディーネは見逃さなかった。
それもそのはずで、スパイスが贅沢の象徴であるワルキューレ帝国民からすれば、今の質問は嫌味かマウント取り以外の何ものでもない。
しかし、それはあくまでワルキューレでの話だ。
バックボーンが違う人たちにしてみれば、質問の聞こえ方も変わってくる。
「塩以外に何をつけるの? この、黄色いソース?」
ミルザは心底不思議そうに、自身の皿を指し示した。
「ええ、黄色いソース以外にも、スパイスなら何でも。うちは気候の問題で、新鮮なお肉はなかなかいただけませんの。塩やスパイスにたくさんつけておかないとすぐに腐ってしまいますのよ」
周囲で聞き耳を立てているワルキューレ貴族たちにも分かるよう、ディーネがそれとなく説明を足すと、ミルザもまた納得がいったというように、短くチェルリク語をつぶやいた。
「それでこんなに味が濃いのね。ちょっとびっくりしました」
「狩りをする殿方は、獲ったその場で食べることもあるとか? 採れたてのお肉はやっぱりお塩だけで召し上がった方がおいしいのでしょうね? ねえ、殿下?」
「あぁ……そうだな。鮮度が違う」
「まあ、殿方はいつも隠れておいしいものを召し上がってらしてお幸せですこと。ね、ミルザ様には慣れないお味かもしれませんけれど、これがうちでできる精一杯のご馳走なんですのよ。ぜひ召し上がって」
ミルザはもう、ジークラインのほうを見ていなかった。
ディーネに向けてにこりとほほえむ。
「もちろん! ねえ、これ、どうやって食べる?」
ミルザが白鳥の頭を指し示す。上半分の頭蓋骨が割られ、中にパテが詰まっていた。
ディーネがそのパテをとりわけ、ミルザのパンに盛ってあげると、彼女は目をまん丸にした。
「お肉のジャムみたいになっているんですね。すごいわ。とても凝っている」
ミルザの驚き方はとても自然だった。少なくとも、ジークラインにだけ媚態を見せていたのではなく、素でやっているのだろうなとディーネも思えるほどに。
――少し神経質だったかもね。
文化が違えば当然のように言葉の捉え方も変わってくる。ワルキューレ宮廷の常識だけに照らし合わせて、嫌味を言っているだとか、猫を被っているなどと決めつけるのは早計だった。ディーネは相手のことをまだ何も知らないのだから、自分の常識だけですべてが測れるなどと思ってはいけないだろう。おそらく、ミルザ本人はそれほど悪辣な性格をしていない。ただ、観察するディーネの目が嫉妬で曇っていただけだ。
誤解が解けたあとは会話もいくらか弾むようになった。
ミルザは健啖に、いろんなものをよく食べた。ひとつずつに解説を加えたのはジークラインではなくディーネのほうだ。途中で何度か皇帝の視線を感じたものの、とくに制止されることもなく、食事は無難に進んでいった。
遊牧民の料理は塩味のみ
中世時代は味つけが塩だけのことが多かったようです。
近代に入ると変化します。




