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聖女祭の夜(3/13)


 皇太子のジークラインが、異国から預かった姫君・ミルザの全身にさっと視線を走らせる。

 たったそれだけのことで、公爵令嬢のディーネは身を削られる思いだった。


 だんまりを決め込む皇太子に代わって、皇帝が陽気な声を出す。


「おお、そうじゃった。せがれや。ご挨拶をさしあげなさい」

「名乗るまでもないかと思っておりましたが」


 素っ気ない返事にディーネはひそかに安堵したが、皇帝の意に沿うものではなかったらしく、彼はかすかに眉を動かした。


「阿呆、わしの大事なお客人じゃぞ。そそうのないようにせいよ」


 皇帝からじきじきに叱られてしまっては、ジークラインも形無しだ。


 彼は騎士の儀礼に則って異国の姫君に挨拶をした。きらびやかな衣装に包まれた上体を深く折り、ディーネの好きな、あの不遜きわまる笑顔で、相手を挑戦的に見つめ返す。そこに礼儀以上の意味はないと分かっていても、ディーネは胸が塞がれるような苦しさを覚えた。


「皇太子ジークライン・レオンハルト。そこにいるバームベルクの公姫は俺の――」

「せがれや」


 おそらくは婚約者だと紹介してくれるつもりだったのだろう。

 彼の言葉をさえぎったのは皇帝だった。


「二度同じことを言わせるでないわ」

「……失礼。以後お見知りおきを、ミルザ姫」


 ――ひ……姫ですって……!?


 皇帝の息女で、母親も王族であれば姫呼びは妥当。理屈で分かっていても、ディーネは受け付けなかった。頭が瞬時に沸騰し、かっとなる。


 ――姫なんて、姫なんて、そんなの、私だって呼ばれたことないのに!


 公爵令嬢なのだから当たり前ではあるが、ディーネはうらやましさのあまり歯ぎしりしそうになった。生まれてこのかた自分の身分が低いなどと思ったことはなかったが、このときばかりはどうして自分は王女ではないのかと真剣に考えてしまったぐらいだ。


 内心ただごとではないディーネが体裁を取り繕えていたかどうかは定かではない。


 ミルザはもはやジークラインしか目に入らないというように、すべての注意を彼に向けている。傲然と見下ろすジークラインが何を考えているのかまでは分からないが、夢見るようなまなざしで、可憐にはにかむミルザは、女のディーネから見ても魅力的だった。


「せがれよ。白鳥が焼けた。はるばるお越しくださった姫君に一番いいところを分けてやりなさい」


 皇帝陛下が猫撫で声でジークラインに命じるのを、ディーネは不思議な気持ちで見た。皇帝は女性に目がなく見境がないともっぱらのうわさだが、どうやら誇張ではないらしい。


「……御意に」


 ジークラインはどことなく不服そうな返事を残し、白鳥の姿焼きに近寄った。十数人分はあろうかという大皿に載せられ、調理してのちに真っ白な羽根を付け直し、くちばしをサフランと卵黄で黄金に塗った大鳥は、宴会のご馳走の中でもひときわ目を引いた。


 ジークラインは肉切り給仕長から儀式用のナイフを受け取ると、彼に代わって、胴体から飾りつけ用の羽根を外しにかかった。一本残らず取り除くと、皮ごとこんがりと焼かれた白鳥のあわれな姿が衆目に晒された。


「さあ、どの部位から行こうか? チェルリクの姫君」


 ジークラインがミルザに尋ねるのですら、ディーネは嫌だと思ってしまう。


「お肉なら何でも食べますよ。王子様のおススメは?」

「首だな。弾力があって食いごたえがある」

「では、それを」


 骨だけ残し、綺麗に喉の身を削いで皿に並べ、上からショウガベースの黄色いソースを回しかける。最後に銀の調味料入れをミルザに手渡すとき、彼女がさりげなくジークラインの手に触れた。


 そのとたん、痺れるような一撃を心臓のあたりに食らって、ディーネはもう少しでうめき声が出るところだった。何の痛みかが分からず、一瞬、心臓発作でも起こしかけたのかと思った。


 ――これが例の……


 婚約中に異性に触れると発動する魔法だというのか。

 なるほど不愉快な痛みだとディーネは思った。


 今のミルザの手を、よけようと思えばよけられただろうに、ジークラインはそうしなかった。失礼にあたる振る舞いを避けただけだと分かっていても、ディーネは嫌でたまらなかった。


「ありがとう、王子様。ねえ、この壺はどうやって使う?」

「塩が入ってるから、好きなだけつけろ」

「塩は分かりますよ。こっちのバラの花びらが入っているのは?」


 ジークラインは一瞬けげんそうな顔をした。おそらく、はたで見ていたディーネも同じような顔になっていただろう。


 ――まさか、砂糖も知らないの?


 異文化の姫だからだろうかと一瞬考えかけたが、ハルジアはどちらかといえばワルキューレの文化に近い。ミルザが暮らしていた宮廷の女主人が元ハルジア王女だったというのならば、娘の彼女もテーブルマナーぐらいは知っていてもおかしくないはずだ。もっとも、ハルジアやチェルリクの宮廷がワルキューレと同じ様式であるという保証はまったくないのだが。


 ミルザは何も知らない子どものように、目につくもの何でも質問しては、ジークラインの答えに大げさな驚きを示している。


「まあ、すごい! これで手を洗うのね!」


 ミルザは洗水盤係が差し出した水差しに、はしゃいだ声をあげる。


 およそ宮廷と名のつく場所に暮らしていて、食事の前に手を洗ったことのないメイシュア教徒などいないはず。彼女が異教徒でないのは食事前の祈りからも察せられた。


 空々しいと思うのは、ディーネがひがんでいるからなのだろうか?

 しかしまさか、ここでディーネが『チェルリクでは食事の前に手を清めないのか』などと質問するわけにもいかない。許可されてもいないのに高い身分の者同士の会話に割って入ることになるし、話の持っていき方次第ではとんでもなく無礼な質問だと受け止められる可能性だってある。


「この黄色い煮汁は何が入ってる?」

「さあな。スパイスだろ」

「どんなスパイス?」

「知らねえよ。食ってみりゃ分かるだろ」


 明らかにぞんざいな対応をするジークラインに、皇帝が「これ、せがれや」と声をかけた。


「せがれはまだ半人前での。美しい女性の前だと緊張してしまうんじゃよ」


 にこやかな調子から表情まで一変させて、皇帝がジークラインに鋭い視線をくれる。


「真面目にやらんか」


 ドスの利いた声で一喝されて、ジークラインはやけくそのように少し声のトーンを上げた。


「……白鳥ならショウガ、コショウ、酢……そんなところじゃねえか? 上にかかってる黄色い粉はサフランだろうな」


 ミルザは聞きなれない単語でも拾ったかのように首をかしげ、「不思議な料理」と言った。しきりにおいしいのかとジークラインに問いかけ、会話を重ねていく。今度はジークラインもぞんざいにあしらったりはしなかった。冗談を言う彼に、ミルザがおかしそうに頭をそらして笑う。


 ディーネはまた少し不満を募らせた。ミルザが男前の皇太子にのぼせ上がって、会話を長引かせてみたくなる気持ちは分からないでもないが、そもそも彼は自分の婚約者なのだ。目の前で分かりやすく媚びを売られると、どうしても嫌悪感を抱いてしまう。

食事前の手洗い

「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」(マタイの福音書 15:2)


13世紀ごろのあるマナー教本には「食事前に手を洗うこと」と書き残されています。

薔薇などで香りをつけた手洗い用の水を、給仕係が席に運んでいたようです。

その習慣が現代のコース料理にも「フィンガーボウル」として受け継がれています。


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