ジークライン様万歳
あらゆる行動は間に合わなかった。魔力を知覚した瞬間に矢の投射は終わっていた。
――死……ッ!?
狙いたがわず心臓めがけて飛んできた太矢は、ディーネに突き刺さる前に、剣によって阻まれて床に落ちた。
振るったのは大剣を手にした大男だ。転移魔法の魔力の残滓が肩や手に残ってキラキラと輝いている。
ジャミングが施されている皇宮で自由に魔術が扱える人間は限られてくる。転移魔法などの高位魔術になればなおさらだ。
「よう。何やってんだ、ディーネ?」
「ジークライン様っ……!」
まわりで見ていたシェフたちがにわかに騒ぎ出す。
「ジークライン様だぞ!?」
「ジークライン様、万歳ッ!」
大戦の英雄でもあるジークラインは、国民の男性諸氏からの人気もすこぶる篤かった。
「万歳っ……! ジークライン様万歳っ……!」
万歳の快哉がいたるところで上がるなか、ジークラインは何ら気負うところなく、無造作に転移魔法を逆さにかけて、刺客をあっさりと始末した。
「速い!」
「何も見えなかったぞ……っ!」
側に控えていた魔術師たちが騒然となる。本職の魔術師よりもよほど魔術の制御がうまいジークラインは、滅多に自分の魔術の構成を読ませない。とっとと転移魔法を封鎖するための魔法も仕上げて、ジークラインは控えている魔術師をねめつけた。
「失態だな。お前たち、何をしていた? カナミアの残党が皇宮の魔術封印のスキマを狙ってきてるから注意しろ、とおれは言っておいたはずなんだが……」
魔術師は直立不動の姿勢になる。
「し、しかし、フロイライン・クラッセンが使用許可を求めてきたのであればこそ……」
「なぜ許可を出した。バームベルク公爵家の娘とはいえこいつはただの女だぞ」
もっともな正論である。
クラッセン嬢は貴族の娘だが、それだけだ。特別な権限など何もない。とっさに宮廷魔術師が従ってしまったのは、公爵家の名前を使って、言うこと聞かなきゃ処しちゃうぞ、とディーネが脅したからだ。公爵令嬢に備わる気迫や品格に呑まれてしまったとしても彼に罪はない。
クラッセン嬢はそのために在るように義務づけられてきた。
生まれつき人を従わせることを期待され、そのように振る舞ってきたのだ。
「申し訳ありません、ジークラインさま。責めはわたくしにあります」
ディーネが思わず声をあげると、彼は不機嫌にこちらを見た。プレッシャーが半端ない。それだけで怯みそうになる。
「で、ディーネ。お前は何をやってる?」
「ご覧のとおりでございますわ。これが遊んでいるように見えまして?」
宮廷料理人たちは忙しくケーキを作っているし、ディーネはお喋りをしながらもケーキの粗熱を取る作業をずっと続けている。
すました答えに、ジークラインは少し怒気をゆるめた。
「おれとて故もなく怒りをまき散らしているわけじゃねえ。この騒ぎはなんだ? 宮の警備を手薄にし、お前の身を危険にさらすほどの重大事なのかと聞いている」
「わたくしにとっては、そうですわ」
これがうまくいかなければ、ディーネが自分の持参金を稼ぎ出すことなど夢のまた夢だ。
「お召し上がりになれば分かること。わたくしはこの事業に、身命を賭しておりますの」
「そこまでの自信作か。いいぜ、このおれがじきじきに味見してやる。光栄に思え」
――ジークラインの試食!
ディーネはとっさに計算した。これはチャンスだ。皇宮内の男性たちからも熱く信奉されている『戦神』皇太子からケーキのお墨付きをもらえれば、女性人気だけでなく男性人気も狙えるようになる。
ディーネはすばやく辺りを見渡した。
前世でザッハトルテと呼ばれていたケーキを発見し、ほくそえむ。
あった、あれだ。ジークラインにすすめるとしたら、あのケーキがいい。
この世界の人にとって、チョコレートは飲み物だ。
ジークラインもまだチョコレートケーキを味わったことはないだろう。
チョコレートコーティングが鏡面のように輝くホールケーキを指さし、切り分けるよう命じると、そばにいたシェフがさっと八等分にして、ジークラインに手渡した。
「おれを失望させるなよ、ディーネ」
いちいち厨二くさい言い回しで釘をさす男だと思いつつ、ディーネは挑戦的に見つめ返す。
「笑止」
ジークラインはしゃくりとケーキにフォークをさした。
ザッハトルテ
チョコレートケーキ。トルテは丸い型で焼いたケーキの総称。ドイツ語でいわゆるホールケーキを指す。