海辺でバーベキュー(3/4)
ボートはすいすい進んであっという間に沖に出た。
二人乗りの小さなボートでこんなに遠くに来ても大丈夫なのだろうかと一瞬だけ思ったが、すぐに考え直す。いざとなったら彼の魔法でどうにでもなるだろう。
ディーネははしゃいで沖の方を指さした。
「島が見えますわ、ジーク様!」
「……ちっとばかり遠いな。一日がかりになりそうだ」
「分かるんですの?」
「距離感もつかめねえでどうやって転移するんだよ」
それもそうかとディーネは思った。絶対的な座標感覚がなければ難しい魔法だろうということは、使えないディーネにもなんとなく分かる。要するに人間には不可能だということだ。
「あっつぅ……」
直射日光で蒸し焼きになりそうだと思っていると、ジークラインがいたずらを思いついたように目をきらりとさせた。
「せっかく海に来たんだ。ちったあ波も被った方がいい。そうだろ、ディーネ?」
「え? ええ……」
喫水線が浅めのボートとはいえ、多少足が濡れることは覚悟していた。一滴も水が降ってこないのは魔術の作用だろうかと考えた瞬間、大きな波が来て、ざばっと膝を洗った。
くしくも奇声を発して驚いてしまったディーネを見て、ジークラインが大笑いする。
「涼しくなったな。なあ、ディーネ?」
「何をなさるんですの……っ!?」
濡れるのは覚悟していたが、ここまでとは聞いてない。スカートもおおかた濡れてしまっている。
「お返しですわ!」
ディーネも水面を操作して大きめの波を飛ばしたが、もとから薄着のジークラインは多少濡れても笑い声を大きくしただけだった。
彼からお返しの一撃をまた食らい、今度は反対側の波にさらわれる。冷たい海水に悲鳴をあげ、やっきになって報復した。頭から海水をかぶったジークラインがちょっとやる気を出したらしく、髪を雑にかきあげて、ディーネを笑みの残る目で睨み据えた。
ばっしゃばっしゃとむきになって水をかけあっているうちに、ディーネもずぶ濡れになってしまった。
「もう、ジーク様ったら、なんてことなさるんですの!?」
興奮の余波で激しく笑いながら髪をぎゅっと絞ったら、ボタボタ海水がしたたり落ちた。少しはしゃぎすぎたかもしれない。文句を言いながら袖を絞り、スカートの裾に手をかける。
腰のあたりまでスカートをまくりあげ、雑巾のように絞ったところで、ボチャン! とすごい音がした。
気まずそうなジークラインと目が合う。
彼は徒手をひらひらさせた。
「……悪い。オール落としちまった」
左右のオールがどちらも消えている。
「どっちも手放してしまったんですの?」
片方だけならともかく、両方いっぺんに失くしてしまったのならよっぽどだ。何か気を取られるようなことでもあったのだろうかとディーネが思っていると、ジークラインはやや虚勢の見え隠れする笑みを見せた。
「だがまあ、心配するこたねえよ。魔法で後ろから押して……」
言っている間に、遠くで雷が鳴った。
ディーネはスカートを絞るどころではなくなり、全力であたりを探る。いつの間にか、目視できる範囲に灰色の積乱雲が発生していた。
「海嵐……!」
この世界では、海上で発生する嵐が魔法の制御を狂わせることがある。
魔法による水流操作がそれなりの高水準にあるのに、海上交通が発展しなかった理由でもある。おそらくは大型帆船が登場するまで、遠洋航海は絶望的だろう。
「戻りましょう、ジーク様!」
言ったか言わないかのうちに、爆音とともにあたりが真っ白になった。ボートがひっくり返ったところまでで、記憶も途切れている。
***
目が覚めたら洞窟にいた。パチパチと焚き火が爆ぜる音がし、岩がちの地面や天井に火影が踊っている。
「無事か?」
額にかざされた手はジークラインのものだった。寒気を覚えて、まだ自分がぐっしょり濡れていることを知る。嵐が通過していないのか、洞窟の隙間から雨風がビュービュー吹き込んでいた。
「近くの島に漂着した。ボートは見失った」
「まあ……ふたりとも無事で何よりでしたわ。ジーク様がここまで運んでくださったんですの?」
焚き火を指しながら言いつつ、おかしな点に気がついた。
ジークラインは何やらディーネも覚えきれないほどたくさんの異名を持った大魔術師なので、わざわざ焚き火をする意味がない。ぱっと服を乾かして、ぱっとどこかから毛布でも取り寄せればおしまいだ。
「……察しのとおり、嵐の影響下から抜けきってない。しばらく魔術は無理だ」
「そんな……ジーク様でも難しいんですの?」
「やってやれないこたねえだろうが、デカい魔法、それもお前を連れてとなるとな。慎重を期して控えておきたい」
――ジーク様が慎重を期すですって……!?
そんなことってあるんだ、とディーネは衝撃を受けた。彼ならば『失敗も敗北も俺とは無縁だ』ぐらいは言うと思っていた。そんなことってあるんだ。驚きすぎて同じことをまた噛み締めてしまった。
――なんだか変ね。
ジークラインがそわそわしているように見えるのはどうしてなのだろう。なんだか、本当のことを言ってはいないような、そんな気がしてしまう。
「……本当に魔術は無理なんですの? 使ってみたら案外――」
ディーネが自前で魔法を使おうと試みた瞬間、ジークラインが慌てたようにそれをかき消した。
「ちょっと、何をなさるんですの? 今、普通に魔法が使えそうでしたのに――」
「やめとけ。この島、ドラゴンの住処だ。目立つと集まってくるぞ」
――ギャオオオオ!!
遠くから怪鳥めいたけたたましい鳴き声がして、ディーネは総毛だった。バサバサとうるさいのは羽音だろうか? 嵐が吹きつける音もかなりのものだが、それを上回る轟音がしている。
「……あれがドラゴン……?」
「俺一人ならドラゴンの一匹二匹素手でも倒せるが、お前を守りながらとなるとな。どうしたって腕は二本しかねえし」
「……素手でも倒せるんだ……」
すごいとかすごくないとか以前に人としてどうなってるんだとディーネは思った。魔法によるチートならまだギリギリ分かる。でも素手とは。生身でドラゴンの一匹二匹倒せる男とはいったいどうなっているのか。地球における悪竜退治の伝承だって一応気を遣って魔剣などを用意しているというのに、この世界のパワーバランスはどうやって保たれているのか。ゲームならば適正な能力値を割り振らないと崩壊するところではないのか。
もしもこの世界がゲームで、デザイナーが存在するのだとしたら、仕事をしなさすぎだとディーネは言いたかった。課金キャラにしたって一強が過ぎるだろうと思う。
「まあ、しばらく待て。たまには雨宿りもいいだろ?」
はたして、ドラゴンから逃れて息をひそめているのを雨宿りでくくっていいものか。
ディーネは微妙にツッコミを入れようか迷ったが、ジークラインがディーネの身体を抱き寄せ、ぴったりと自分に寄り添わせたので、それどころではなくなった。急な接近に、心臓が縮み上がりそうになる。
ジークラインはなにやらディーネの手のひらの具合を握って確かめ、「冷たいな」とつぶやいた。
暖を取るためなのか、ディーネを抱えた腕に力がこもる。人肌の温もりが気持ちよくて、少しディーネの緊張が解けた。
このところのディーネは不用意に彼にくっつかないよう気をつけていたので、むしろ触る口実ができてほっとした。結婚前にあれこれするのはどうかと思ってはいるが、くっつくのは好きだったりするのである。ジークラインにもたれかかるついでに、彼の二の腕に頬をこすりつけた。
やっぱり彼のそばはいい。一緒にいると安心する。
――ギャー! ゲキャキャキャキャ!
何が起きてもきっと大丈夫だと思えるからだろうか?
――バキッ! ミシッ……ベキベキベキ!
彼は自分の隣を世界で一番安全な場所だと豪語していたが、本当にそうだとディーネも思う。嵐が来たってドラゴンが来たってきっと大丈夫……
――ゴオォォウッ……ズドオォォォォォンッ!! ギャギャギャギャギャ!!
「いやああああ落ち着かないいいいいいい!!」
明らかに聞き流してはならない種類の破壊音が立て続けに起こるので、ディーネはがばりと身を起こして、ジークラインの正面に詰めた。
「ちょっとジーク様、本当にのんびりしてて大丈夫なんですの?」
ジークラインはフッと、常より大人びた微笑みを見せた。
「心配すんな。お前のことは俺がなんとかする」
力強い励ましをもらえてディーネがきゅんとしたところに、彼はさりげなくひと言付け加えた。
「嵐さえ収まればな」
「いやあああああジーク様が弱気いいいいいいい!!」
ぶっちゃけドラゴンよりも弱気なジークラインのほうが怖いとディーネは思った。
俺にできないことはない、が口癖で、神様レベルの奇跡的な大魔術師で、戦局判断力がもはや未来視の次元に到達している男をしてここまで言わせる事態。こんなことは今までになかったので、ディーネはどうしたらいいのか分からなくなった。敬遠していたはずの、ジークラインの無駄な大見栄とハッタリが恋しくなりさえする。
これは相当なピンチなのではなかろうか。
どうにかして脱出の方法を考えるべきだろうかと悶々としているディーネに、ジークラインは元気づけるような身振りでそっと手を握った。
ドキリとしたディーネに、ジークラインが大真面目な顔で言う。
「……何か思い残したことはあるか?」
「えっ……?」
「なんか……あるだろ? 死ぬまでにしておきたいこととかよ」
「死ぬんですの? ねえわたくし死ぬんですの?」
「ちげえよ。死ぬまでにしたいことだっつってんだろ」
「死にたくないんですけど!?」
「だからそうじゃねえって……ああ、クソ、面倒だな」
ジークラインは頭が痛いとでも言わんばかりに額に手を当てているが、頭痛がするのはこっちだとディーネは言いたかった。外は相変わらずジュラシックパークな異音がしている。生きた心地がしないとはこのことだ。
さっきからどうにもおかしい。ジークラインといえば自信過剰、大言壮語といえばジークラインといったようなところがあるのに、どうして今日だけはこんなに不穏なことばかり吹き込まれているのだろう? いつもの彼ならば、たとえ根拠はなくとも『絶対大丈夫だ』ぐらいのことは言うのではないだろうか。
不安が最高潮に達したディーネは、じっとジークラインを観察する以外になす術がなかった。
ジークラインは頭を抱えながら、「だいたいガラじゃねえんだ」だの「この俺をこんなふざけた茶番に付き合わせやがって」だのと独り言のようにぶつぶつつぶやいている。ディーネには意味不明だ。
「ああ、もう、やめだ、バカバカしい。まだるっこしいのは性に合わねえんだよ。お前にゃ悪いが、俺の流儀で行く。あとで文句言うなよ」
何のことやら分かっていないディーネなどお構いなしに、ジークラインはいつもの不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ディーネ。前からお前に渡しそびれてたもんがある」
彼は服の内側から何かを取り出した。手のひらが拳の形に握られているので、隠されているものが何であるかは分からない。




