婚約指輪の話
公爵令嬢のディーネと皇太子のジークラインは何年も前から婚約中だ。
「あんたって婚約指輪つけてないのね」
そんなことをふいに言ったのは伯爵夫人のヨハンナだった。
「もしかして、もらってないの?」
さすがはヨハンナ。自分よりも身分が高いディーネに嫉妬して嫌がらせをしてくるだけはあって、的確に痛いところをついてくる。
「も、もらってますうー! もらったことくらいありますからー!」
もちろんディーネだって婚約指輪くらい持っている。しかし、身に着けていなければ周囲には分からない。もしかしたら周りからかわいそうな女に見えているのではないかという気が薄々していたので、突っ込まれてちょっとムキになってしまった。
「じゃあなんでつけてないのよ?」
「ええと……その、いろいろいただいてはいるんですのよ? でも、なにぶん小さいときにいただいたものですから……どれもサイズが合わなくなってしまって……」
「あら、じゃあサイズを直したらいいじゃない。皇太子殿下からのいただきものなんだったら、つけていない方が失礼に当たるというものではなくて? さぞかし立派な宝石つきなのでしょうね?」
「いえ、その……」
ディーネは持っている指輪をあれこれ思い浮かべてみた。
その一。光る草花の花輪。ドライフラワーにして飾ってある。
その二。ブリキのおもちゃ。ブリキ製とはいえ、庶民には本当にこれを婚約指輪とするカップルも大勢いる。お祭りにいったときにひと目惚れして買ってもらった。宝石箱に入れてあるが、わざわざサイズを直して身に着けるようなものではない。
その三。指貫き。ちょっと珍しい外国製で、かわいいので愛用しているが、サイズを直して使うような正式なものではない。
そう。ディーネがジークラインからもらった指輪は、だいたいがその場その場でディーネが駄々をこねて無理やり買ってもらったもので、正式な婚約の証というわけではないのである。
ヨハンナはなんとなく察したのか、歯切れの悪いディーネの様子に、フンと鼻を鳴らした。
「……やっぱりもらっていないのね?」
「そ、そんなことは……! 何かあるはず……! きっと倉庫にしまってあるはずですわ! わたくし婚約式のとき二歳でしたのよ? 何かもらっていても記憶になんかありませんもの!」
「正式な婚約の証である指輪を、公式の場でもあえてつけさせないでしまっておく――なんてことあるの?」
あるわけがなかった。
ディーネは一生懸命記憶をたどってみたが、やっぱり何も覚えていなかった。
「わたくし……一時期、ジーク様から婚約指輪をいただくシチュエーションに憧れるあまり、毎晩その妄想をしていたことがあって……」
「妄想」
「ざっと数十回くらい妄想で指輪をいただいているうちに……記憶が混濁して現実と区別がつかなくなっていたのですわ……ですから、すっかりいただいたつもりになっておりました……」
「あんたって見かけより結構頭の中身がお花畑なのね」
ヨハンナの容赦ないツッコミにディーネは撃沈した。
彼女の言う通りである。
「ま、そんなに仰々しいものでなくても、殿下が本当にあんたを愛してるなら、騎士道風の指輪のひとつもくれて当然じゃないかしら? 好きな女には売約済みの印をつけておきたいと思うのが普通ですものねえ」
ディーネは胸が詰まって何も言い返せなくなった。
それはディーネとしても気に病んでいたことのひとつだったからである。
この世界には、婚約のときに『必ず』婚約指輪を送るという風習は『ない』。財産のやり取りについて両家で話し合って、立ち合いの聖職者に魔法の刻印を入れてもらったらそれで婚約成立だ。その際、花嫁の身分が高いような場合には、手付金として豪華な指輪などが贈られることもある、というだけの話だ。それを婚約指輪と呼ぶのなら、確かに婚約指輪だ。
しかし、そうした慣習とは別に、『騎士道風の指輪』というのが存在するのである。
愛の証として指輪を贈るのがおしゃれだという風潮。
それがワルキューレにも存在する。
宮廷の様々な場面で、人妻から騎士へ、または貴族から身分違いの娘へ、指輪のプレゼントが行われている。人妻から配下の騎士に指輪を渡したら、すなわちそれは不倫になってしまうじゃないかと思われる人もいるかもしれないが、そもそもワルキューレ宮廷は不倫文化だ。そういうものなのだとしか言いようがない。若く美しい処女の娘に恋をすることは『低い騎士道』と呼ばれて蔑まれる一方、既婚の地位も財産もある貴婦人に恋をすることは『高い騎士道』と呼ばれてもてはやされるというあたりからして現代人には理解不能だろう。
ワルキューレとは、若い娘よりも人妻の方が価値が高い世界なのである。
それに乗じて、騎士が好きな娘に『騎士道風』の指輪を贈って将来の約束――婚約指輪とするのが、ワルキューレ宮廷ではもっともインスタ映えするリア充のやり方なのだった。
ディーネとジークラインは自分の意思で婚約を決めたわけではない。十年以上も婚約を続けていて、何をいまさら形式などにこだわっているのか、という空気もある。そもそもこの世界だと、結婚と恋愛は別なので、下級騎士や不倫妻たちがいくら指輪を自慢しあっていたからといって、ディーネたちには無関係だ。
だからジークラインがディーネに指輪をくれていなくても、不義理でもなければ冷酷でもない。法的にもなんら問題はないのだ。
しかし、ディーネはそういうお遊びが何より好きなのである。
「あんたたち、うちの家に押しかけてきて『最高のデザート』がどうのこうのと派手に演説をぶちあげた割に、全然熱愛中って感じでもないわよね」
真剣に痛いところをつかれて、ディーネは憤慨した。
「そ、そんなことありませんー! 熱愛中ですー! もうすっごく仲良くしていただいてるんですからねー!」
「はいはい。あんたもたいがい見栄っ張りね」
ヨハンナの言うことになんて耳を貸す必要はない。
分かってはいても、ディーネにはちょっと痛かった。
――婚約指輪もくれないなんて、やっぱりジーク様は私のことなんか好きじゃないのね。
心のどこかでずっとそう思っていたことも確かなのだ。
口さがない宮廷すずめにもきっとそう言われているだろうということは半ば予想していたが、改めてヨハンナから言われて、ディーネは悲しくなってきた。
すでに泣きそうな彼女を見て、ヨハンナがぎょっとする。
「ちょっと、なにも泣くことないじゃない?」
憎まれ口を叩きつつも、ディーネが悲しんでいたら慌ててくれる程度には、ヨハンナとも仲良くなった。
ディーネはなるべくなんでもないようなふりをしてみたが、やっぱりこの件についてはまだ呑み込めていない。
本当は騎士道風の婚約指輪ももらってみたいのである。それこそブリキのおもちゃなんかじゃなくって、宮廷で流行っているような銀の指輪がいい。
忘れようと思っていたが、今ので完全に思い出してしまった。
「あんたってホントバカね。ほしいなら素直に殿下にそう言えばいいじゃない」
それが言えたら苦労しないとディーネは思った。
「定期市で売っているブリキのおもちゃとはわけがちがうのですわ……軽々しくねだれるようなものではございませんのよ」
「いいじゃない。嫌いな相手というわけでもなし、おねだりされたら殿下だって喜ぶでしょう」
はたして本当にそうだろうか、とディーネは思った。
「それはもちろん、ジーク様は嫌とはおっしゃらないと思いますけれど……」
「じゃあ、いいじゃない。サクッと買ってもらえばいいでしょ」
彼ならきっと買ってくれるだろう、とディーネも思う。過去に指輪をねだったときも駄目だと言われたことはなかった。
しかし、喜んでいるかどうかはまた別だ、と思ってしまうのは、ディーネが卑屈だからなのだろうか?
こういう気持ちのこもったプレゼントは、ただ買ってもらうだけでは意味がない。
ディーネには譲れないこだわりがあった。
「実は、指輪のプレゼントを色々想像するうちに、わたくしの考える理想のプレゼントというものができあがりすぎてしまって……」
「どういうことなの……? ちょっとあんた、詳しく説明しなさいよ」
「ですから、指輪がほしすぎて、もらう妄想をいっぱいしたと申し上げたではございませんか」
「……そうね、女なら憧れるわよね」
「そ、そうですわよね? 憧れますわよね?」
ちょっとヒキ気味のヨハンナからも同意が得られたことで、ディーネは少し勢いづいた。
「そうなるともう、『ねだって買ってもらった指輪は本物じゃないのでは? 本心から渡してもらえてこそ価値があるのでは?』と思えてしまって……理想のシチュエーションでいただきたい気持ちが強すぎるあまりに、逆にねだれなくなってしまったのですわ……」
「あんたって本当にどうしようもないわね……」
ヨハンナは呆れ顔だったが、ディーネだって自分がちょっとおかしいことは分かっている。
「ねだったら買っていただけることは分かっておりますのよ。でも、義務的に買われたのでは意味がありませんもの。ジーク様が心をこめて贈ってくださったお品なら、わたくしも誇らかに身に着けることができるでしょうけれど……」
買って買って買ってくれなきゃやだやだー!
とゴネにごねて買ってもらった指輪を身に着けてもむなしいだけではないか。
ディーネには過去、そうして強請り取った贈り物が山ほどある。
ひとつひとつは大したものではないし、ジークラインだって駄目とは言わなかった。
でも、ジークラインが本心から『あげたい』と思ってプレゼントしてくれたものなんて、おそらくひとつもないのではないだろうか。
単にディーネがめんどくさい子どもだったからご機嫌を取っていてくれただけだ。
ディーネはもう子どもではないのだから、いい加減、みっともない方法で愛情を試すべきではない。
分かっているのに、やっぱり婚約指輪はほしいと思ってしまうのだ。
「それは高望みしすぎってものじゃないの? 政略結婚でしょう、あなたたち?」
ヨハンナは冷ややかな反応だが、ワルキューレは結婚と恋愛が別の文化。実は彼女の意見が正しい。
現代知識持ちのディーネのように、『せっかく結婚するのだから、ちゃんと恋愛したい』などと思うほうがおかしいのである。
政略結婚だから、夫に恋愛感情を求めてはいけない。
それがこの世界の正論であり一般常識なのだ。
それでも――
「でも、ジーク様はちゃんとわたくしのことが好きっておっしゃってくださいましたもの……」
きっとあれは本心から言ってくれたのだと信じたかった。
その気持ちがあるのならば、今はまだ指輪のことなんか頭になくても、そのうちにディーネの気持ちにも気がついてくれるかもしれないではないか。
「さっさとねだって買ってもらえば済む話なのにねえ。ま、いいんじゃない? あんたはそうやってメソメソしてるのがお似合いよ」
「ほっといてくださいまし」
ディーネがぷいっと横を向くと、ヨハンナは鼻先で笑った。
「ところであんた、その『理想のプレゼント』ってのはどういう内容なの?」
「えぇと……たわいない妄想ですわ」
「面白そうだから教えなさいよ」
「お耳汚しですのよ? なんとなく、せっかくだからプロポーズされたいなー、場所は夜空の下とかー、でも夕焼けもいいなー、みたいな……」
「それが面白そうって言ってんのよ。詳しく説明なさいよ」
「えぇ……でも……」
「内緒にしておくから」
ディーネは仕方なく概要を話した。
いろんなバージョンがあるが、おおむね最後にプロポーズされて終わる。
海辺に来たふたり。ボートで沖に漕ぎ出すも、突発的な嵐にあって無人島に流されてしまう。
『都合がよすぎる』とか、『転移魔法はどうした』といった細かいことはいいのだ。だって妄想なのだから。
ともかく無人島で遭難してしまったふたりは洞窟で一夜を明かすのである。
――せめて、ジーク様と形の上でも結婚してから死にたかったわ。ああここに、ここにせめて指輪があれば……
古来より、婚約中の娘が結婚せずに死んだ場合は、棺に指輪を入れて埋葬しなければならないという迷信がある。
ともかく、息も絶え絶えのディーネがそんなようなことを言うと、おもむろにジークラインが指輪を取り出すのである。
――こんなことならもっと早くに渡せばよかったな。
『いや、魔法で脱出しろよ』というツッコミはこの際どうでもいい。女が寝る前にするひとり遊び用のくだらない妄想に細かい整合性を求めてはいけない。
そしてふたりだけの秘密の結婚式をするのである。
クリスマス編、五月のお祭り編、海編など、みっつほど披露したところでヨハンナはツボにはまってしまったらしく、何をしゃべっても肩を震わせて笑っていた。
「あー、おっかしい……わたくし、どうしてこんな逸材を野に放っておいたのかしら? もっと早くサロンに呼ぶべきだったわ」
そんなに面白かっただろうかとディーネはいぶかしんだ。
「あーあ、面白かった。サイコーね。あんたといると退屈しなくていいわ」
ヨハンナの言う『面白い』は半分ぐらいゴシップ的な意味を含んでいるので、ディーネとしてはあんまり嬉しくなかった。しかし、ディーネが皇太子絡みだと奇行に走りがちだということは周知の事実なので、変なうわさが広まったとしても実害はない。
なので、まあいいかと思い直した。ディーネは腐っても公爵令嬢。言いたい放題言うやつというのはどこにでも現れる。皆さんの酒の肴にされるのが半分ぐらい宿命なのだ。長年付き合っているロイヤルの公式カップルというものはそういうものである。
「でも、まあ、あんたの熱意はよく分かったわ。面白いお話のお礼ぐらいはするわよ」
「え……?」
「いいからいいから。悪いようにはしないわ」
意味深なヨハンナの発言でその日の会話は終了になった。
――いったいあれは何だったのかしら。
しばらくはディーネも警戒していたが、すっかり忘れたころにそれはやってきた。
「海に行かないか?」
ジークラインからそう誘われたのは、七月にさしかかってからだった。
「まぁ素敵! いいですわね、砂浜でバーベキューいたしましょう!」
「バーベキュー……?」
「お肉やお野菜を鉄板で焼いてその場で食べるのですわ!」
「いや、まあ……悪かねえな」
なんとなく何か言いたそうなジークラインの態度に引っかかりを覚えつつ、ディーネはバーベキューの計画に気を取られて、すぐに忘れてしまった。
騎士道風の指輪
「中世の結婚は封建社会を維持するために、同等身分同士のケースが原則である。騎士の結婚も騎士道精神にのっとり、とくに女性を尊重するかたちでおこなわれ、求婚の際のシンボルはやはり指輪が多かった。」『図説 指輪の文化史 (ふくろうの本/世界の文化) 』P15 浜本 隆志(河出書房新社)
結婚時に指輪を交換する儀式は古代ローマのときに存在していたものの、キリスト教と騎士道の精神が隆盛する中世中期頃から一般に広まったそうで、結婚指輪自体が騎士とキリスト教の二つに関連が深いようです。
参考:『指輪の文化史 (白水uブックス)』浜本 隆志(白水社)
婚約指輪を贈る習慣はない
結婚の証となる品は結婚指輪が多かったようですが、その一方で婚約(求婚)の証となる贈り物は比較的なんでもよく、その土地の風習によってはベルト、ヘアピン、衣服の一部などでも婚約が成立したようです。(フランスの地方習俗より)
また、婚約指輪と結婚指輪をセットで贈る習慣が定着したのは19世紀以降であるようです。




