皇太子殿下は悩んでいる
ジークライン・レオンハルトはワルキューレ帝国の皇太子だ。幼馴染の婚約者がいて、十年来なにくれとなく連れ添い、面倒をみている。
その娘とはあまりにも交流が多かったせいか、子どものころの関係性や約束ごとをまだ引きずっていて、今一歩親しい間柄にはなりきれていない。婚約者というよりは仲のいい兄と妹のようだと周囲からも思われているが、困ったことに、婚約者の娘本人にもそのように思われている節があった。
まだほんの子どもだったころの彼女は、慕情にかまけて「早く子どもがほしい」などと口走ることもあったが、はたして今でもそう思っているのかどうか。真相は本人のみぞ知る。
ジークラインに分かるのは、とりあえず彼女に触ろうとすると素早く逃げ出されてしまうということだけだ。全身から発する警戒・猜疑心の念たるや尋常ではなく、まるで捕食寸前の小動物のようだ。こちらは何も取って食べようというのではないのだから、そう警戒されてしまうと面白くないのもあって、まだ手は出せずにいた。
警戒されるのは癪で、泣かれるのも好かない。人倫に悖ることをよしとしない矜持もある。
しかし彼女は美しい娘だ。目が大きくて幼いばかりだった顔立ちも、鼻筋や顎の線が少しずつしっかりしてくるにつれて魅力的になった。身体の曲線もなんとはなしに丸くなり、思わず手を伸ばして触ってみたくなる機会が増えた。
しかも彼女は心底ジークラインに惚れ抜いていて、それを隠しもしない。少し恥ずかしそうに「好きです」と告げるささやき声の何と甘いことか。
愛や恋にも種類がある。それはジークラインにも分かっている。
彼女は雄大な自然を見たら「すごい」と素直に感動するのと同じ気持ちでジークラインを好きだと言っている。
気の置けない家族と接しているときと同じ気持ちで好きだと言っている。
可愛らしいペットを見たら自然に抱く優しさと同じ気持ちで好きだと言っている。
そのどこにも、俗っぽい男が普通美しい娘に対して抱くような、やましい気持ちは含まれていない。みじんも下心のない、澄んだ青い瞳でまっすぐこちらを見つめる娘のなんと清らかなことか。
彼の婚約者、ウィンディーネは美しい娘だ。
そしてジークラインは、俗っぽい男だ。
下心を持て余しているから、ときには美しい娘の期待に合わせて偉人を演じてしまうことすらあるというだけのことなのだが、彼女がそれに気づく気配は、今のところ、ない。
***
婚約者の娘――ディーネが突如部屋に現れた。それは特に問題ない。いつでも来られるように、起きているときはだいたいゲートを開けている。
彼女は何かとても興奮していて、忙しく紙や地図を机に並べたかと思いきや、ジークラインに向かって『ここに座れ』という。
今度は何を始めるのかと思いつつ言われた通りにすると、なんと彼女は、いきなりジークラインの膝の上に腰を落ち着けたのである。座ってこられてもしょせんは体重の軽い娘の身、それほど重いとも邪魔だとも感じなかったが、触れた腿や尻が柔らかすぎたのがまずかった。
「ジーク様、ご覧になっていてくださいましね。ここの計算が合わないのですわ」
持参した蝋板を指さし、ディーネは書き物を始めた。熱心に手元を覗き込む娘の首はほの白く、片手でつかめてしまいそうなほど細い。無防備に丸めた背中からほっそりした腰の曲線がジークラインの目の前にある。つい視線で辿って、後悔した。
――触りたい。
細い腰をつかんで引き寄せ、うなじにかぶりつきたい。彼女が控えめに上げる悲鳴を聞いてみたい。
ジークラインの邪念はいっかな彼女に届かない。何やら行き詰った計算とやらについて一生懸命話しているが、正直に言ってジークラインはそれどころではなかった。
急に触ってはいけない。
いやらしい目で見てもいけない。
日ごろから念じていることでもあったが、今だけはひどく難しいことであるように感じた。彼女は華奢で全体的に細いが、触ってみると筋肉がないせいか、娘らしい柔らかさがあって、それがこちらのあらぬ欲望を掻き立てる。
年の差もあり、ディーネが十分に大人になっていないことも考えて、これまでのジークラインは彼女の放つ美しさや色香に礼儀正しく無関心を装ってきた。その期間が長すぎたのがよくなかったのだと、ジークラインは思う。今ではそれが当たり前になっており、彼女は五歳や十歳のときと同じように無邪気にジークラインへの接触を試みる。彼女にしてみれば仲のいい兄に寄り添うようなもの、かわいがっている飼馬にまたがるようなものなのだろうが、こう気軽に密着してこられるとジークラインとしてもたまらないものがあった。
スタイラスを握って思案にくれるディーネの顔を、背中から覗き見る。
彼女は本当に綺麗になった。もはや無関心を装っているのにも限界があるほどに。
ところがジークラインは、いまだに礼儀正しさの演技を捨てきれないでいる。捨てるタイミングをすっかり逃してしまった。
ひとまずジークラインは彼女に頼んで退いてもらったが、なぜそうしなければならないのかはよく分かっていない様子だった。
何も難しいことはない。正直に話してしまえばいい。
――お前はいい女だから、これ以上は手を出さないでいる自信がねえよ、と。
どうも彼女は自分に魅力がないと信じ込んでいる節がある。客観的に見ても美しい娘にしては少し異様な思い込みだ。何をそんなに恐れているのかは知らないが、ともかくも彼女は自分に魅力がない、魅力がないからまだジークラインが間違いを起こすはずもないと思い込んでいる。ジークラインが認識を変えさせようとそれとなく色々なことを吹き込んでも、軽いほのめかし程度ならその思い込みでやり過ごしてしまうのだから、はっきり自覚させるには、一度きちんと話すべきなのだろう。
なのに、告白できないのは、どうしてなのだろうか。
彼女から警戒されて、ぎくしゃくするのが嫌だからだろうか?
最悪の場合は、また婚約を破棄するとか騒がないとも限らない。
あるいは見栄のせいだろうか。
下心の告白なんて、どうあがいても格好悪いものにしかならない。
――彼女の話に付き合っているうちに気は静まった。
気を強く持っていれば、彼女を膝の上に乗せるぐらいのことはできる。先ほどは強制的に退いてもらったという負い目もあって、話が終わった頃合いに再び彼女を呼び寄せた。
なんてことはない。精神の鍛錬と同じだ。
意識しなければ、彼女がべったりと背中を預けてこようが、肩越しに愛らしい笑顔で振り返ろうが、まったく問題はないのだ。
ディーネはジークラインの膝の上に座って足をぶらぶらさせながら、新しい浴場の構想を喋り始めた。なんでも各部屋に水道を引き込むことにより、いつでも手軽に風呂へ水を溜められるようになるのだそうだ。
「使用人の手を借りなくてもお風呂に入れるんですのよ? ちょっと汗を流したいときにも便利ですわ!」
使用人の手を借りず、誰にも知られることなく汗を流す。
そんな必要がありそうなこととはいったいなんだろうか。剣の練習をするわけでもない、箱入りの令嬢に汗を流す機会はそう多くない。ディーネの説明は、どうしても部屋での秘め事だとか、そういうものを連想させる。
「とっても便利なのでございます! 体験してみたらジーク様もきっとお気に召すはずですわ!」
彼女のはしゃいだ甲高い声でハッとする。つい話を聞き流してしまった。つまり彼女は新しい風呂の体験をしてほしいらしい。それ以上の意味はおそらくない。ないのだろうが、どうしてもジークラインには違うように聞こえる。一緒に汗でも流して、使用人に気兼ねせず風呂に入る何かをしよう、と、そう誘われているのではないかと思えてくる。
「初めてでも分かるように、使い方もちゃんとご説明いたしますわ」
結構なことだ。風呂の使い方を教えてくれるとは。それは一緒に入浴しながら、ということだろうか? おそらく違うのだろうが、せめて水に濡れてもいいような薄着には着替えるだろう、という、淡くしょうもない予測が彼女の発言を歪んだものに変換する。
「それで、わたくしが皇宮に住むときにも、こういうものを作っていただきたいのですけれど……」
ディーネは家の中に使用人を入れたくないのだと言った。確かに彼女はよくそういうことを手紙にしたためていた。誰にも邪魔されず、夫婦でゆっくり過ごす時間が欲しいので、今から料理や掃除も少しずつ勉強している、というようなことを。
「できればジーク様とふたりで住みたいなぁ、って……」
ごろごろと甘えるように頭をすりつけてそんなことまで言う。桃色に染まった頬は、観察するジークラインに下心が有り余っているせいなのか、あでやかに見えてならなかった。恥ずかしそうに言いよどむ声音も蜜を含んだように甘い。
十歳やそこらの頃なら彼女の夢見がちなところも愛すべき特質と思っていた。
しかし今はある意味凶器だと思っている。
これだけ懐いて、甘えてくる娘に手が出せないのだ。
ジークラインには悪魔の声が聞こえてきそうだ。
――少々強引に手籠めにしても、最後には彼女も納得するだろう。
実行しないのは、泣かれるのも喚かれるのも大の苦手だからである。それに、ジークラインが惚れているよりも多く、彼女から惚れられているという矜持もあった。彼女がどうしてもとねだるのならば考えないでもないが、その気もない彼女に手を出すのは何かが負けた気がして嫌だった。
とはいえ、もうそろそろジークラインは降参したくなっていた。
頼み込んだら許してくれるというのなら、そうしてもいいと思う瞬間があるほどに。
負けたくない。もう耐えられない。大事にしてやりたい。そろそろこちらの事情も理解させたい。
見栄と欲望と打算と愛。
矛盾した感情が複雑に入りまじる。
ジークラインはいろいろな思いに蓋をして、ひとまず彼女に退いてもらうことにした。




