ショコラと貴婦人(6/13)
「でも殿下、一度もお菓子をこしらえたことのない職人が最高のデザートを用意できるとはとても思えませんわ」
――まだそのネタ引っ張るの……
ディーネとしてはもう勝敗も見えてきたことだし、この辺で勘弁してほしかったが、どうも向こうはまだ引き際とは思っていないようだ。
「あら、自信がおありみたいですもの、きっと武勇伝がたくさんおありなんだわ、そうでしょ、殿下?」
「戦地に行くとやはり殿方は変わると言いますものね」
「ねえ、わたくし殿下の武勇伝聞きたいわ」
ジークラインはたいそう芝居がかった身振りで、いかにも失望したというように首を小さく振った。
「は。俺の武勇も知らねえとはお前ら全員蒙昧が過ぎるぞ。まとめてこの国から出ていくか? なあ、ディーネ?」
――えっ、そこで私に振るんだ?
やっぱりジークラインも未経験なのをからかわれると弱いのだろうか?
しかしボケ倒せというのなら、それもやぶさかではない。
「わたくしはジーク様のご活躍をすみずみまで知悉しておりますわ! 帝国民たるもの当然の務めでございます!」
ねー、とあざといぐらい無邪気に首をかしげてみせると、彼は慈愛のこもったまなざしでディーネを見つめた。
「それにお菓子でしたらわたくし少々心得がございますのよ。もしもジーク様が趣味でお始めになるのでしたらわたくしがお教えいたしますから、全然問題ありませんわ」
まるで趣旨を読まないセリフ。
これまでであれば、ヨハンナたちは鬼の首を取ったようにディーネをからかい抜いていただろう。
ジークラインはわざとらしいぐらいの呵々大笑で、心の底から満足したというように振る舞ってみせた。
「そうだな。もしもこの俺が無聊の慰みを必要として、何かくだらねえことでも始めるとするならば、そのときはまずこいつに教えを乞うだろう。それで、こいつが見知らぬ悦楽を求めるときは、まず俺に教導を乞うはずだ。俺たちはそうやって十年以上も婚約を続けてきたんだ。そうだろ、ディーネ?」
――だからあんたたちがとやかく言っても無駄なんだからね!
見せつけるようにぎゅーっと手を握った。
ヨハンナの声にならない敵意をびしばしに浴びているうちに、ディーネは何とも言えない気分になった。
先日の母親の話が思い起こされる。
――ヨハンナは何をしたってあなたのことを好きになったりはしないわよ。仲良くなる方法があるならわたくしがとっくに実践しているわ。
母とヨハンナが犬猿の仲であることは周知の事実だ。
――あなたが今しているように、じっとしてやり過ごすのも正解よ。どうせもうあと五年もすれば皇宮はあなたのものだものね。未来の皇太子妃さん。
ヨハンナとの確執の、きれいな解決は難しい。
では、あと五年、ディーネがしぶとくこの宮廷社会で生き残るためには、何をすればいいのかと考えた。
ディーネが皇宮で快適に過ごすためには何が必要だったのか。
きっとそれは、ジークラインからの温かい支援だったのだと思う。
――ジークとは仲直りしたし! もう何も怖くないし!
思う存分見せつけてやれたので、ディーネは満足だった。
怒りに顔を赤くしたヨハンナが、そもそもディーネのような魅力の乏しい娘では健康な男を満足させられないといったようなことを周りも扇動して喚いていたが、ちっとも気にならなかった。
むしろ、見せつけてやって正解だったのだという自信すら持てた。
母親はディーネに向かってこうも言っていたのだ。
――ヨハンナは誰が皇太子殿下の妻に収まったとしても納得なんてしないわ。女は素敵な男性とカップルになる女を見かけたら自然と自分を重ね合わせてみるものだけれど、それがしっくり来ないときはなおさら手厳しくなるものよ。
ディーネがことあるごとに涙ぐんでしまうのも気に入らなければ、男まさりに行動するのも気に入らない。
なぜなら、もしもヨハンナがディーネの立場なら決してそんな行動はしないから、だ。
自己投影というものについて言及があったことに、ディーネはものすごく驚いた。
この発展途上の世界でそこまで深い洞察ができる女性は、極めてまれなのではないだろうか。
――あなたが、ヨハンナの理想を演じてみるのも面白いかもしれないわ。ヨハンナが皇太子殿下の恋人だったら何をするかを考えて、実践してみたらいかが?
そこでディーネも考えてみた。
もしもヨハンナが未来の皇太子妃だったら、何がしたいだろう?
彼女は赤ん坊のころから皇宮で暮らし、そのハイセンスな知識や衣装などを褒めそやされて育ってきた。お取り巻きも大勢いて、おしゃべりもものすごく上手だ。
生まれつき引っ込み思案で泣き虫で、自分の意思を主張することができず、ジークラインの後ろをついて歩くのを信条とするようなディーネとは性格がかけ離れている。
そんな彼女が、何かあればすぐに逃げてしまうディーネを女主人として迎え入れなければならないとしたらどうだろう?
もしかしたらヨハンナは、歯がゆかったのかもしれない。
もしも彼女が皇太子妃であれば、今ごろはディーネの何倍も上手に皇宮で立ち回り、輝いた毎日を過ごしていたことだろう。
ヨハンナは皇族として何不自由なくワガママ放題に育ったが、伯爵夫人の地位が与えられたとき、すべてが変わってしまった。彼女はもはやひとりの臣下に過ぎないのだ。
ヨハンナがどんなに欲しくてもついに手に入れられなかった皇宮での揺るぎない地位を、ディーネは生まれつき持っているのである。
きっと彼女はこう思っていたはずだ。
――私のほうが、ずっと皇太子妃にふさわしいのに。
それはジークラインに対する恋心などとは次元が違うものなのだろう。女性に地位や権力への欲がないなどというのは間違いだ。
ヨハンナには宮廷に集まる以外にすることがないから、権力欲がそこでの名誉獲得に形を変えて顔をのぞかせる。
ところがディーネは、宮廷での権力争いにまるで興味がない。豚に真珠とはこのことを言うのだろうか。真価も分からず、適切に使いこなせない馬鹿がすばらしい真珠を腐らせていたら、そりゃあ腹も立つしイラつくことだろう。
だから、ディーネが考えなければならないのはふたつだ。
ディーネが真珠の価値を適切に理解し、使いこなせる人間だと証明すること。
うまくその真珠を相手に譲ってやること。
――「両方」やらなくっちゃあならないってのが「幹部」のつらいところね。
冗談まじりに考えて、ディーネは聞き流していた話に改めて注意を向ける。
ヨハンナの扇動で、もはや場はディーネへの誹謗中傷当てこすり大会と化していた。
ジークラインが隣で明らかにイライラしているが、そっと手を引いて慰めた。
そろそろ会場もどん底まで冷え切ったことだし、始めてもいいだろう。
「ところでヨハンナさま」
ディーネが口を開くと、彼女は張り付けたような笑みをこちらに向けてきた。
「ショコラについて、不穏なうわさを耳にしたのですけれど……」
むしろ本題はこちらなのだった。




