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ショコラと貴婦人(5/13)


 宮廷での冗談はときに度を超したセクハラにつながることがある。不倫文化であることも重ね合わせると、そこから情事までもうあと数歩の距離だ。


 ジークラインは面倒ごとを避けるためか、公式の場面でも、女性複数に取り囲まれるような事態は意識的に避けていた。ディーネが話の輪に加わっていたとしても、ほとんど寄り付かなかったのだ。


 ディーネがどのような仕打ちを受けているか一切知らなかったのは、そのせいなのである。


「いくら殿下が素敵な方とはいえ、ご結婚前では、立派な殿方とはとても言えませんわよねえ」

「愛の喜びを知らないようでは一人前とは申せませんものねえ?」


 ディーネはこのへんでもうすでに頭に来ていた。


 ――ちょっと、ジーク様にセクハラしないでよ!


 好きな人が性的にからかわれると結構深刻にやな気分になるということを初めて知ったのである。

 こうならないように、女性を避けてくれていたジークラインは賢かったのだと、今になってようやく分かった。


 胸中複雑なディーネをあやすように親指で手の甲を撫で、ジークラインは鼻で笑った。


「俺が、愛の喜びを知らない、だって?」


 いかにもくだらないといったような言い回しに、周囲はざわついた。


 ディーネもちょっと驚いた。いったい何を言い出すのだろう? まさか、女性経験の自慢でもする気なのだろうか?


「なあ、ディーネ。教えてやれ」


 ――えっ、な、なにを……?


 察しの悪いディーネにはそれだけだとちょっと意味をくみ取れない。もう少しヒントがほしい。


「お前から見て俺はどうだ? 喜びを知らない不完全な男に見えるか?」


 ――いや、知らないよね?


 暗示的に言われているのは女性経験があるのかどうかだと、ディーネにも分かる。それで言ったら彼はまだ何も知らない。魔術刻印があるのだから、ごまかしようもなくそれは事実だ。


 そこまで考えて、ディーネはようやくピンと来た。


 彼は『見えるかどうか』を聞いている。


 つまり、事実は問われていない。

 ディーネらしい答えを返せばいいのだ。


 婚約者の青年から大切に扱われている、まだ猥談にもなじみがない少女が今の話を聞いて、なんと答えるのがもっとも自然か?


「ジーク様はとっても愛情深い方ですわ! わたくしは毎日とってもかわいがっていただいておりますのよ!」


 ――要するに、暗示などぶっちぎって、下ネタなど何も分かりませんという顔をしていればいいのだ。


 微妙なところをついてやったとディーネはひとり満足する。

 天然ボケの少女が答えたようにも、実際に深い仲になっている自信から答えたようにも聞こえる。


 ジークラインはいつものドヤ顔で、わが意を得たりと言わんばかりにディーネに流し目を送った。ディーネもにこりと柔和に返す。


 ――あー、敵意がめちゃくちゃ飛んでくるわー……


 おそらくヨハンナも今頃はイラついているだろう。今までのディーネならば、こんな風に相手を刺激するような応答は絶対にしなかった。相手がくさしたがっている内容にピンときたら、決して反論せず、感情的にもならないこと。それが次善の策だと思っていたし、今でも間違っていたとは決して思わない。


 いつもの険悪な空気にさらされているのに、なぜだろう、不思議とディーネは怖くなかった。


 だって今は、隣にジークラインがいて、ディーネの味方をしてくれているのだ。


「やだわ。毎日だなんて。お若い方はお盛んね!」


 ――あれ、まだ下ネタで引っ張るんだ。


 ディーネがどんなにいやだなあと思っていても、これが宮廷なのだから、慣れるしかない。


「でもそれって危ないのではなくて? 殿下がたはよくよくお気をつけあそばせ、おばさん心配よ」


 にこりと微笑んで言ったのはヨハンナだ。

 ジークラインからすればヨハンナは年上の又従妹なので、まあおばさんと言えなくもない。


「おなかが目立ってきたりしたら、帝国の威信問題になってしまうわ」

「婚前なのに……ねえ?」

「でも、変ねえ。そういえばおふたりってご婚約を結んでからずいぶん経つのではなくて? それなのに……毎日仲良くなさっていて、まだ何も?」

「ええー、じゃあ、ひょっとしてそれって……」


 ひそひそと小声で品のない言葉をささやき合い、ディーネたちには聞こえない話で盛り上がる一同。


「そういえば、エリアルト宮のご夫婦のお話はもうご存知かしら、おふたりとも?」


 悪意たっぷりのヨハンナが親切ごかして聞かせてくれた話によると、その夫婦はいつまでたっても子宝に恵まれないので、いろんな方法を順番に試してみたのにも関わらず、十年近くも成果が上がらなかったのだそうだ。


 それでいざ離婚という段になって、ふたりが夫婦として成立しないことを立会人に見てもらおうとしたところ、とんでもないことが分かったそう。


「ふたりとも、前と後ろを間違っていたのよ!」


 ディーネはどこが面白いのかが分からなかったが、一同は楽しそうだった。


「ねえ、一度おふたりともきちんと閨の作法を学んだほうがよろしいわ」

「そうよ、だっておふたりとも、お互いのことしか知らないのでしょう?」

「ジーク様だってまだお若いんですもの、女性のことをよくご存じとは限らないわ」

「こういうのはどなたか信頼できるおとなの女性に任せるべきよ」


 ――うっわー、うっざー……


 婚約者のディーネを差し置いて堂々の浮気宣言。


 ディーネはもう席を立とうかと思ったが、ジークラインの顔色をうかがうと即座にデレッとした甘い笑みの彼と目が合ったので、少し気を取り直して反撃してみることにした。


「ねえ、ジーク様、どうしてふたりで仲良くするとおなかが目立ってまいりますの?」


 いくらディーネが箱入り娘だからってこのボケはない。バカだと思われるリスクと嫌味とバレてしまう危険性の両方が懸念されるようなやや悪手ぎみの質問だったが、察しのいいジークラインはディーネの意図をきちんと読み取った。


「さあなあ。一番うまいデザートを最後まで取っておけなかったさもしい女が大勢いる……ってことなんじゃねえか」

「デザート……?」

「女には理性がないからな。甘いものには飛びついちまうんだよ。本日この場にお集まりのご婦人がたみてえにな」


 女性には理性がない、というのはなにもジークラインの偏見というわけではなく、この世界では一般的によく言われる学説だ。

 女は理性がないから、欲望に弱いのだ――と世間では思われている。

 甘いものに目がない女は、淫らな行為にも目がないという俗説が一般に流布している。


 なかなかな煽り文句だが、子づくりの手順も知らない童貞とあざ笑われたのだから、このぐらいは言い返すのが相応というものだろう。


「わたくしも甘いものは好きですわ。目の前にあったら飛びついてしまうかも……」


 ディーネが知らぬ存ぜぬを貫き通すと、彼は豪快に笑った。


「お前は心配いらねえよ。何しろこの俺の女なんだからな。最高のタイミングで最高のデザートが用意されるに決まってんだろ? お前はただおとなしく待ってりゃいいんだよ」


 だんだん厨くさくなってきたが、ディーネは不思議と前ほど嫌だとは感じなかった。むしろこのちょっと恥ずかしい言い回しが気持ちいいと感じてしまうのは、惚れた欲目のなせるわざなのだろうか?


 ディーネが顔のニヤケを隠せずにいると、油断した隙をつくように、鋭い殺気を感じた。


 ヨハンナだ。

 恐ろしい目つきで引きつり笑いを浮かべている。



女は理性がないから、欲望に弱い


”おまえたち女は分別がない動物(*18)だから気づくまいが、”

” *18 アリストテレスは人間を理性的動物と定義した。人間と女を区別する見方も行なわれたから、女を理性のない動物、すなわち「女は分別がない動物」という表現が出たのであろう。”

ボッカッチョ デカメロン 下(河出文庫)(Kindleの位置No.1540-1542/No.1789-1792)河出書房新社 Kindle版

※アリストテレスは古代ギリシャの哲学者で、中世の学者は彼の学問をベースに神学を発展させました。


”女性というものは,その性の劣等であるがゆえに男よりもずっと欲望に身を任せやすくできており,たとえその欲望を満たすことを差しひかえている場合も,それは恥を恐れてのことであって,欲望を満たしたいという願望はいささかも薄らいだわけではありません。だからこそ,男たちは強いて女を貞淑に保つためのくつわとして,不名誉に対する恐れというものを課したのです。子供を生むことに関して以外,社会が女性から受ける恩恵はないのですから”

カスティリオーネ 宮廷人(東海大学古典叢書) P515


※カスティリオーネは16世紀初頭の貴族。彼の記した宮廷でのマナーが後世の貴族に大きな影響を与えました。


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