終わりの請願
「……確かにお前の言う通り、俺は自分の意思でお前を選んだわけじゃない。血統書付きの健康体で、稀少な金髪に青い瞳。いい馬を選ぶのと同じように選ばれて俺に宛がわれたのがお前だ。そのお前が婚約を解消したいって言い出したときは、まあ、それもいいかと思ってよ。またどこかから別の女が選ばれてくるんだろうと、軽く考えていた」
――うわ……
ディーネは一気に辛くなってきた。それは一番聞きたくない告白だった。やっぱり少しも愛されてなかったのだなと思うと、苦いものがこみあげる。
「……だが、まあ、長い付き合いのよしみだからな。やっぱり婚約は解消したくないとお前が泣きを入れてくんなら、許してやるつもりではいた。どうせお前は俺から離れらんねえと思ってたしな。けどよ、蓋開けてみりゃお前、俺抜きでもずいぶん楽しそうにやってやがんじゃねえか。信じられるか、いっつも俺につきまとってたお前がだぞ?」
――ソウデスネ。
苦い告白を聞かされたあとだと、よりいっそう偉そうに聞こえてくる。
「……あれは、効いた。今すぐやめさせる方法を何通りも考えて……しまいにてめえで呆れたね。俺は何でこんなに腹立ててんだ? たかが女のすることだろうに、くだらねえってな。そんなに嫌なら望み通り今すぐ婚約解消してやろうかって頭に血がのぼったこともあったけどよ、なんでか、いざってなると言えなくてな。どうせそのうち失敗するはずだと決めつけて考えないようにしてたが、お前がうまくやってるって聞かされて、いてもたってもいられなくてよ。ここまで来りゃあ嫌でも認めるしかねえ。俺は……」
ジークラインはとても言いづらそうにしている。
「……俺は、お前の失敗を望んでいた。お前を手放すのが嫌なのに、てめえでそれを認めたくねえから、失敗させるのが一番だと思っていた。うまく行かなきゃまた俺を頼るようになるだろうと……お前はあんなに楽しそうにしてやがんのにな……」
それが本当なら、傲慢なこの男を悔しがらせてやるという当初の目的は達成していたのかとディーネが考えていると、ジークラインはまた言葉を続けた。
「俺は俺なりに、お前の味方になってやってるつもりだった。けどよ、失敗につけ込もうとする味方なんているか? いねえよな。つまりだ、俺は、お前に、劣等感を抱かせようとしてたんだよ。失敗を経験させることで、俺は、お前を俺のものにしておきたかったんだ。考えたかないが、これまでもずっとそうしてきたんだろう。お前を俺のそばに置いておくには、やる気をくじくのが一番だからな。できもしねえ魔術に手を出して困ってるお前を助けてやるのはよくても、俺の目が届かないところで楽しそうにやってるお前には我慢がならないってのは、つまりそういうことだ」
ディーネがずっと皇太子に対して解消できない大きなコンプレックスを抱いていたのは事実だ。ヨハンナたちから浴びせられる嫌がらせがそれに拍車をかけていた。
解消したくて取った行動は色々だったが、どれもジークラインにははるか及ばず、どうして自分は何もできないのだろうと思っていたことは覚えている。
――あれってわざとだったの……?
手紙を書いても返事は来ず、好きだと告げても軽くいなされる毎日。
なんてうっとうしい女なのだろうと自己嫌悪が募った。
「言いそびれてたが、持参金稼ぎご苦労だった。お前はこの俺をも出し抜いて、立派にやり遂げたじゃねえか。ならもう、俺からの評価に囚われんな。俺がお前を認めてやれねえのは、俺がお前の敵だったからで……だから、お前は何も悩む必要なんざねえんだよ。お前は自分が思ってるよりもずっといい女だ。なにしろ、この俺が惚れこむぐらいなんだからな」
――惚れてるって言った!
心中穏やかではないディーネに、ジークラインは苦笑いをした。
「本当は、もっと早くに言ってやれりゃよかったな」
確かに、彼がそういう風にしてくれていたら、ディーネも今とは少し違う性格になっていたかもしれない。
「なあ、ディーネ。このままじゃ終われねえだろう? お前は俺に惚れてるし、俺も、お前が好きなんだからよ」
――また好きって言った!
さっきからあえて聞き流していたが、そろそろ限界だと思って、ディーネはおそるおそるツッコミを入れてみることにした。
「あの……ほ、本当に……? わたくしのことが……?」
「好きだ」
「じ、実は気のせいとか……?」
「好きだっつってんだろ、そんなに信じがたいか」
ディーネはとっさに両手で顔を覆った。ニヤケすぎで見せられないと思ったからだが、たぶんジークラインには筒抜けなのだろう。
――どうしようこれ、すごく気持ちいいかも……
とろけてる場合ではないが、もはやいろんなことがどうでもよくなってきた。
うっとりしているディーネをどう見たのか、ジークラインは遠慮がちにまた口を開いた。
「……お前は俺に、何も望まないとは言ってたけどよ。頼むからもう一度教えてくれ。お前の望みは何だ? 俺はお前の敵だからな。てめえで考えてみてもよく分かんねえんだ。けどよ、お前がちゃんと言ってくれりゃ話は違う。この俺に不可能なんざないってことをもう一度思い出させてやるよ」
そしてこの男らしさの無駄遣いである。いつもならうわーと思うところだったが、このときのディーネは頭が沸騰していたのでときめいた。しみじみとジークラインの持つ野性的な美しさに見とれてしまう。
「……ディーネ?」
「あ、えっと、その」
ディーネがジークラインに望むことを聞かれているのだったと思いだし、慌てて思考を巡らせる。
あのときのディーネは確か、ジークラインから『望みは何か』と尋ねられて、『何も望まない』とつっぱねたのだった。
「……わたくしが、ジーク様に何もしていただきたくなかったのは本当ですわ。わたくしの望みは、自分の手で何かができるようになることだったんですもの」
ディーネが禁じられた魔術書まで持ち出して願いをかけた内容も、ジークラインから愛されることではなくて、何もできない自分を変える方法だった。ジークラインに依存しきっている自分のことも嫌いで、彼しか見えていない愚かさも嫌いだった。いっそジークラインを嫌いになれればいいと思っていた――魔術が不完全だったのか、結局は一時的にしか効果がなかったけれど。
「でも……」
彼をつっぱねたとき、そこに何の含みもなかったかと言われたら、少し悪意はあったように思う。
「……ジーク様が、わたくしからそう言われて面白くなかったお気持ちも分かりますわ。会話を拒否されたとお感じだったのですわよね? けっしてそうではなかったのですけれど……誤解を招いているのは存じておりました。少し意地悪してさしあげたい気分でしたのよ。ですから、これでおあいこですわ。わたくしも、ジーク様も、お互いに少しずつ身勝手でしたのよ」
だからこれで恨みっこなしだ――と続けて、ディーネはにこりとした。
「もしもジーク様がわたくしに情けをかけてくださるのなら、わたくしを何もできないと決めつけて扱うのはおやめくださいまし。だって、わたくしがジーク様のお役に立ちたいのは、それだけお慕いしているからなんですもの。わたくしなりにジーク様から必要とされていると実感するために大切なことですから、奪わないでくださいましね。やる気なんかくじかなくったって、おそばについていろとおっしゃるのなら、わたくしはそういたします。ジーク様がわたくしを愛しているとおっしゃる限りは、ですけれど」
彼が好きだと言ってくれるのなら、何でもできると思った。
「ああ。それがお前の望みだってんなら、何を置いても叶えてやんよ」
すっかり毒気を抜かれたディーネがうっとりしながらジークラインの男らしい台詞をかみしめていると、彼はとてもさりげなくもうひと言付け加えた。
「……婚約の解消は、やめでいいよな?」
ディーネはうっかりうなずきかけたが、ハッとして思い直した。
この男はずっとディーネを騙していたのだ。あれほど偉そうにディーネを突き放しておきながら、本当は愛していたなんて言われても知るものか。
やれ結婚してやるだとか、光栄に思えだとか、さまざまな恩着せがましい台詞を頂戴したのに、たった一回詫びを入れられただけで許してやったのでは釣り合いが取れない。
ディーネはジークラインの悔しがる姿見たさに、お花畑思考をがんばって引っ込めた。
「……ジーク様が、どうしてもわたくしと結婚したいとおっしゃるのなら、それもやぶさかではありませんわ」
にやけ気味のディーネのセリフはいまいちしまらなかったが、ジークラインの笑いを買うには十分だったようだ。
彼はひとしきり笑うと、ヤケを起こしたように言った。
「どうあってもこの俺に頭を下げさせたいか。いいぜ。上等じゃあねえか。二度は言わねえぞ」
ジークラインは椅子に座ったままの挙動で、机の支柱を足で払った。軽い作りの小さな円形テーブルがすみっこに寄せられて、障害物がなくなる。
「皇帝ヨーガフ四世が長子、ジークライン・レオンハルト。世界を覇する帝国の皇太子として、生涯一度だけお前に乞おう」
乞おうと言う割には至極えらそうな態度で、彼はディーネの足下にひざまずいた。
こちらを臣下のように見上げていても大胆不敵な笑みは変わらず、思わずディーネのほうがたじろいでしまう。美しい男だとこれまでに何度も実感してきたけれど、炯々と輝く強い瞳に射抜かれて呼吸さえ止まりそうになった。
「愛している。残りの人生もお前とともにありたい――だから、どうか俺と結婚してくれ」
待ちに待ったプロポーズに感激してしまって、しばらく何も言えないでいると、ジークラインが焦れたように手を差し出した。
「ほら。手を貸せ」
手の甲を差し出すのは了承のサインでもある。ごく当然のように要求するジークラインにわずかな落胆を覚える。なぜこの男は居丈高な振る舞いをやめられないのだろう?
もったいぶって右手を出さずにいると、彼は空振りを食った手のひらを決まり悪そうに握りしめた。
「……なんだ、また気を悪くしたのか? 本当にしょうがねえな……」
その言い方もまた癪に障る。
「嫌々なのでしたら結構ですけれど」
「ちげえっての」
ジークラインはいよいよ進退きわまったように手を握ったり開いたりした。やっぱり葛藤があるらしい。
「お前は俺にとってかけがえのない唯一無二の女だ。俺はもう、お前以外には考えられない。なあ、ディーネ。これも帝国のためだと思って、俺のそばにいてやっちゃくれねえか。俺はもう、お前がいないとどうにもなんねえんだよ」
ジークラインと知り合ってから十年あまり、彼からこんなに必死になってお願いされるのは初めてではないだろうか。
気をよくしたディーネは、微笑みながら今度こそ手を差し出した。
「お受けいたします。わたくしも……」
胸がつまってしまって、言葉がうまく出てこない。思えばずっとこんな日を夢見ていた。他の誰でもなく、ディーネがいいのだと言ってもらいたかった。
「……殿下に、わたくしをもらっていただきとう存じます」
感極まってしまって、涙が出た。こんなだからジークラインにも過剰に心配されてしまうというのに、呆れるほどの涙もろさだと思う。
みっともない顔を晒すのが嫌で、とっさに背けると、ぐいと手を引かれてジークラインの腕の中に納まった。
気恥ずかしさや動揺よりも、喜びのほうが勝っていたので、ディーネはおとなしく身をゆだねることにして、しばらく静かにすすり泣いた。