終わりの庭園
小姓たちが耳をそば立てている状況が嫌だったのか、ジークラインは久しぶりに空中庭園に誘ってきた。ディーネもやりにくかったので従うことにした。
昔はドラゴンに乗ってようやく到達していたが、今はジークラインが一瞬で運んでくれる。
移動の衝撃に耐えようとしばらく目をつぶっていたら、すぐにもう着いたと言われた。以前よりも転移魔法の精度が上がっているらしい。
懐かしの空中庭園は、冬だというのに緑一色だった。以前は城郭だったとおぼしき廃墟が高いところにあり、そこから奇妙な庭が一望できる。
ここはふたりの秘密基地で、よく親の目を盗んでは遊びに来ていた。ジークラインは今でも使っているのか、案内された一室はきれいに掃除されていた。
「まあ、ジーク様がお片付けなさいましたの?」
「埃まみれじゃ興が削がれるだろう?」
この男がほうきとちり取りで床を掃いている姿など到底想像できなかったので、ディーネは笑ってしまった。
部屋に魔法の明かりが灯り、壁に据え付けられている錆の燭台にも不思議な光が宿る。そのうちにいったいどこからくすねてきたのか、真っ白なテーブルクロスが現れてテーブルの上にかかった。
ビロウド張りのクッションが置かれた席につくと、ジークラインも対面に座った。
庭には美しい草花が咲き乱れている。
淡く光る花は夕闇の中だといっそう綺麗だった。
「……まあ、お懐かしゅうございます。昔はよくジーク様にねだってあのお花を摘んでいただきましたわね。覚えていらっしゃいますか?」
「花の冠だの首輪だの、さんざん作ってやったな」
「あのときはあれが本当にうれしくて……」
「ああ。よく覚えてるとも。お前の嬉しそうな顔は最高だった」
昔を懐かしんでか、ジークラインは声を落とす。
「……お前にもっといろんなものを見せてやりてえと思ったから、転移魔法も覚えたんだ。ドラゴンは怖いっていつも言ってたろう?」
ディーネはびっくりしてジークラインを見た。ドラゴンが怖いと言っていたのは本当で、ディーネもよく覚えているが、転移魔法の話は初耳だった。
「……また、作ってやろうか」
「お花の冠を? 結構ですわ。もう子どもじゃありませんのよ」
「なら、金でも銀でも好きなもんを言いな。俺とて子どものままでいるわけじゃねえ。お前の望むもんは何でも作ってやれる」
ディーネがなんと答えたらいいのか考えあぐねていると、ジークラインは苦笑した。
「……婚約を解消する相手からもらいたいもんじゃねえ、か。まったく、あの頃はよかったよな。お前は花ひとつであんなに喜んでたのに……」
低いつぶやきは、ディーネに聞かせることを目的としていないのか、ほとんど聞こえないくらいだった。
「……今じゃ何をしてやりゃあいいのかちっとも分かりゃしねえ」
ディーネは何もかもが懐かしくなって、自然と顔がほころんだ。
「ジーク様はいつもそうしてわたくしを甘やかしてくださいますものね。わたくしはそんなジーク様が大好きで……」
思い出にかきたてられた明るい気持ちは長続きせず、すぐに消える。
「……何もできない自分が大嫌いでしたわ」
それでもいいと彼が言ってくれるたびに自己嫌悪でいっぱいになった。ジークラインはあんなに特別なのに、自分には何もない。何もないから焦って、がむしゃらに気を惹こうとして、愚かな女に成り下がる。
「ジーク様に甘やかされるたびにどんどん自分が嫌いになっていくの、わたくしにもどうしようもなかった……」
苦い思い出ならごまんとある。ヨハンナをはじめとしたディーネをよく思わない女性たち、悪意なくディーネを無邪気な存在として扱う年かさの貴族たち。
皇宮の催し物は、普通、幼い子どもが出席するようなものではない。ディーネはジークラインのお供として何度も引っ張り出されたが、周りに友達を作れるような環境ではなく、さりとて大人とうまく会話を合わせていけるほどの機微もなく、出席するたびに身につまされた。
――この場に、私は必要なの?
「わたくしはもう、殿方の陰に隠れているだけの女でいたくなかったのでございます。冠だって、誰かにねだって作っていただくのではなくて、わたくしが自分で買ってみたかった……ねえ、ジーク様は商売人ごっこだなんてお笑いになりますけれど、自分の手で何かを達成したと思えるのってすごく気分がいいことなのですわね。わたくしはつい最近まで存じませんでした」
ディーネにとって、公爵領の経営は、これまでに感じたことのない楽しみを見出せる体験だった。自分にしかできないことをやれているという自負を持てたし、結果もちゃんとついてきた。
「わたくしは、初めて自分が必要とされていると思えたのですわ。ジーク様にだって必要とされてると思えたことなんかありませんでしたのに……」
ジークラインは、ただ隣にいればいい、と常々ディーネに言っていた。その言葉を真に受けて、ディーネは、隣にいるだけの、お飾りの女なら、誰でも構わないのではないかと思っていた。疑問に思っていても正面から聞いてみる勇気はなかった。その通りだと言われたら、本当に立つ瀬がない。
「……自分で何かを為すことで、わたくしは初めて、『お前なんかダメに決まっている』と責める声に、言い返すことができたのでございます」
初めはヨハンナたちがディーネを責めていた。いつしかその声はディーネの内部にも染みついて、自分自身がその声に縛られるようになっていった。
「ヨハンナ様は、ジーク様にとってわたくしは数ある女性のうちのひとりにすぎない、代わりなんていくらでもいる、取るに足りない女だ、といつもおっしゃっていましたけれど……いつの間にか、わたくし自身も、そう思い込んでしまっていたのですわ」
以前のディーネならヨハンナに向かって何かを言い返すことはできなかった。それは、ヨハンナのことが怖かった以上に、自分自身でも呪いをかけてしまっていたからだ。
黙って聞いていたジークラインが、ディーネの話を遮るように、手のひらをかざした。
「……ヨハンナなら、じきに皇宮からの追放処分が下される」
「追放……?」
経緯が分からず思考停止するディーネに、ジークラインは何のこともないように手を広げてみせた。
「ドラゴン騒動での、議会での買収行為が目に余った――ってのは表向きの理由だな。お前がこないだ散々文句言って帰ってったろ。重荷に感じてるんなら、ひとまず目につくところから退いてもらおうかと思ってな」
皇宮への立ち入りが禁止されれば、ヨハンナがディーネと顔を合わせる機会は激減する。領地の没収などはそれこそ継承権も絡んだ複雑な理由づけが必要だから簡単にはできないが、追放程度なら皇族の思惑ひとつでどうにでもなる、ということだろう。
「そう難しく考えることはねえよ。お前が気にいらないやつの名前をかたっぱしから挙げてみろ。そのうち皇宮からは消えている」
ディーネは首を振った。皇宮での生活は仲良しグループのものではない。統治機能が未熟だから、国の政治と切っても切り離せない人間関係ができあがっている。
気に入らないから誰かを飛ばす、なんてことは、いつまでも続くものではないのだ。
何よりも、そうやって無制限に甘やかされている自分自身に、きっと耐えられないだろうと思った。
「違うのですわ、ジーク様。責める声は、わたくし自身のもの。わたくしが、自分を責める声に耐えられなくなって……言い返す術を探していたのでございます。それがやっと叶いましたのよ。ですから……もう、以前のようには戻れないのですわ。わたくしは、ジーク様に何かをしてほしいのではなかったのでございます。自分の手で、何でもできるようになってみたかった……」
とりとめもないディーネの話に終止符を打ったのは、付き合い切れないとでも言うように身じろぎをしたジークラインだった。
「……お前が苦労していたのは、こないだ聞かせてもらったよ。けどなぁ……」
頭の後ろで手を組んで、天をあおぐ。
「お前のために何かしてやったら『迷惑』で、何もしなかったら『婚約は解消』か。じゃあ俺にどうしろってんだ」
半分ふてくされたような声は、どう聞いても拗ねた子どものそれだった。
「……ジーク様は、婚約が解消できたら、自由になってせいせいするとはお思いになりませんの?」
「なんだ、そりゃ。どこをどう考えりゃそう思えるんだよ? 見ず知らずの女ならともかく、お前は、この俺が、十年近くもそばで目をかけてやった女だぞ? なんで今さら裏切られなきゃなんねえんだよ。やってられるか。ふざけんな」
だんだん目が据わってきたジークラインにビビって、ディーネは心持ち椅子の上を後ずさった。




