豪商ミナリール家
「ハリムいるー?」
「は、ここに」
近頃はもっぱらディーネの専属として控えていることが多いハリムは、今日も執務用の離れで何やら書類の整理中だった。
「こないだのケーキの小売店を王都に作る話、いまどんな感じ?」
「順調です。原材料の販路は押さえました」
「わあ……」
ハリムは優秀すぎてときどきこちらがびっくりする。ディーネが思いつきで口走ったようなこともだいたい全部実現してしまうのだ。
「お嬢様のほうはいかがですか。豪商ミナリール家の令嬢に試食していただいたとか」
「うん、それがね」
ナリキから今しがた言われた話を披露すると、ハリムはいぶかしげな顔をした。
「なるほど、貴族にしか流行らないだろう、と」
「そうなのー。だから、出店は高級志向にして、数も絞っていこうかと思って」
「しかし、それは間違っていると思いますよ」
ハリムもまた行商から成り上がった凄腕の商人。彼の言うことにも耳を傾ける価値がある。
「確かにこの商品は貴族向けです。でも、庶民がまったく買わないかというと、そういうわけではない。貴族専門の高級品というブランドに憧れる中流階級の庶民は大勢いるでしょう」
「あー、ブランドね」
前世知識をたどってみてもその指摘は正しいと思えた。ディーネも東京は青山本店のケーキ屋さんというだけで意味もなくセレブリティを感じたりしたものだ。
「ミナリール家の令嬢ともあろうものがそこに気づかないはずはないと思うのですが……」
「うーん、言葉のあやってやつかもね。とにかく、私が思ってるほど販路は広くないってことを分かりやすく教えてくれたのかも」
「しかし、ミナリール嬢がおっしゃるよりははるかに広い販路を期待できるかと。あとは、そうですね、ブランド力を高める何かがあればいいのですが」
「ブランド力かぁ……」
そこは由緒正しい公爵家の令嬢にして皇太子殿下の許嫁であるクラッセン嬢のあれやそれが光ってしまうところだろうか。
「そうね、考えておきましょう」
***
「冗談じゃないぞ!」
ナリキは父親の怒鳴り声にびくりと肩をすくめた。
豪商ミナリール家の当主ゼニーロは怒るとものに当たる悪癖の持ち主で、先ほど怒りに任せて投げつけた高価なクリスタルガラスのゴブレットは壁にぶつかり、跡形もなく砕け散った。
「ワゴンブルクのミニチュアの次は、新作のケーキだと……?」
ゼニーロの前にはナリキが持ち出した試作品のケーキが置いてある。
「ふざけるな! おいしいじゃないか!」
それを無我夢中で食べながら、ゼニーロはまた怒鳴った。
せっかくのおいしい食べ物なのだから、怒るのか食べるのかどちらかにしたほうがいいと娘のナリキは思うが、口には出さないでおく。
「こんなものが王都で売り出されてみろ! われらの経営するカフェは大打撃だぞ! おいナリキ!」
「はい」
「それでベーキングパウダーとやらの秘密はつかめたんだろうな!」
「それが……」
ナリキは口ごもる。ディーネは材料を企業秘密としていて、侍女でさえも工房やキッチンには近づけさせないのだ。そこから秘密を探ろうとしてもすぐに感づかれてしまいそうで、ナリキは行動できずにいた。
「なぁにをぐずぐずしておるか!」
ゼニーロはまた食器を割る。高価な陶磁器の皿が見るも無残に砕け散った。
「とっととそのベーキングパウダーの作り方を盗んでこい! さもなければわが家の収入が激減しかねないぞ! お貴族様のぬるい遊びでこっちの市場を荒らされてたまるかというのだ!」
それからゼニーロは一転してしみじみとした口調になった。
「父さんの小さい頃はな、食うものにも困る生活をしていたんだ。そこからわしは成り上がったんじゃよ!」
父の苦労話がまた始まった。耳にたこができるほど聞かされてきた話だ。
ナリキは適当に聞き流す。
「ナリキ、お前を貴族の家に行儀見習いに出してやれているのは誰のおかげだ?」
「お父様のおかげです」
やっと話が終わりそうな気配を見せたので、ナリキはほっとしながらそう答えた。
「そうだ。分かっているなら、とっととベーキングパウダーとやらの製法を探ってこい。なぁに、いい品であるが、商売のことならばこちらのほうが何枚も上手! 先にわが商会の商品として発表して、つぶしてくれるわ! わはははは!」
ナリキは落ち込みながら転送ゲートで公爵家に戻った。
彼女用にあてがわれた私室で、考えるともなしに奉公先の姫君のことを思う。
最近のクラッセン嬢は別人のようだ。
昔はもう少し引っ込み思案で、日がな一日中刺繍をして暮らしているような大人しい少女だったのに、ある時期を境にして活発に何かをするようになった。今日はキッチンで何かを作っていたかと思えば明日は鍛冶屋で鋼鉄の出来具合を見ていたりと、休む間もなく働いている。
はにかみ屋でおとなしい彼女が好きだったナリキは、置いてきぼりにされてしまったような焦りを感じていた。大公爵家の令嬢なのにいまいち垢ぬけないおどおどとした態度を見ていると、ストレスも感じる反面、どこかで安心もできたのだ。貴族の娘というのがみなクラッセン嬢のようであるのならば、相手にしても怖くはない。
でも、今のクラッセン嬢は違う。あの子は、怖い。
商売のことなど何も知らないはずのぼんやりしたクラッセン嬢が、何年も商売に携わってきたものと同等か、あるいはそれ以上の鋭い考察で新商品を開発していくのだ。ナリキもはじめこそ彼女にものを教える立場だったが、彼女はあっという間に帳簿の読み方などもマスターしてしまった。彼女が言うには『いちおうボキのシカク持ちだから』だそうだが、どういう意味かは分からない。
ナリキが言ったことも、一を知れば十を知る、といった風にどんどん吸収していく。
これ以上ものを教えたくない、と思ってしまうこともたくさんあった。
知恵をつけてあげればあげるほど、彼女は磨かれていく。そのうちにナリキなどよりはるかに輝く宝石になってしまうのではないかと思うと、もう我慢がならなかった。
クラッセン嬢には申し訳ないとは思う。
しかし、これもある意味でひとつの競争なのだ。
商売は、より多くの品を、多くの人に、より高い値段で売ることができれば勝ち。
ほんの数週間前に経済という名の戦争に参加しはじめただけのクラッセン嬢に、ナリキたち既存の商人組合が後れを取るわけにいかないのだ。まさしくこれは命のやりとりを介さない戦争だった。
庶民が貴族に対抗できる、ほとんど唯一の手段はお金を積み上げること。
ならば、貴族にお金をもたせてはならない。商業の世界をコントロールさせてはならない。それは商人、ひいては庶民たち全体の敗北をも意味するのだ。
ナリキはクラッセン嬢からいかにしてベーキングパウダーの製法を盗み取ろうか考えながら、公爵家に向かった。