持参金稼ぎの顛末は
バームベルク公爵の長女ウィンディーネ・フォン・クラッセンは前世の記憶を持っている。
今世には婚約者がいて、何もかもが決められた人生だった。記憶を取り戻す前はそれが当然だと思って、受け入れる努力を続けていたが、自由な時代の空気を知ってしまったことから認識が一変。婚約の破棄を考えるようになった。
商売は順調に進んでいたが、ある日そのことごとくを邪魔するような新税法案が可決されてさあ大変。
にっちもさっちも行かなくなったディーネに、皇太子は自力で活路を開いてみせろ、と言う。
あっという間に時は流れ、十一月の最終週。タイムリミットが刻々と近づき、落ち着かない毎日を過ごしていたが、とうとう朗報があった。
「……やった」
ディーネは数十枚に及ぶ証券を手にして、震えが止まらなかった。それぞれ発行元は違うが、まぎれもなく現金と変えられる手形だ。合計で大金貨一万三千枚分の金額が記されていた。
この日のために必死で銭を稼いできた。
一緒にジークラインにつきつけてやろうと思っていた、取引のすべてを記録した帳簿は何冊にも渡るために持ち運びを断念。数ページぐらいにまとめて新しく作成した。
最後の仕上げだと思うと、ちっとも苦にならない。
「さあ、ジーク様、お約束の大金貨一万三千枚、ご用意いたしましてございます。ご確認くださいまし」
ディーネがうきうきと新しく作成したレポートを出すと、書き物の途中だった皇太子は、ペン先を引っかけてインク壷を倒してしまった。
あれよあれよという間に汚れる書き物机に従者たちが方々から取りすがり、黒い汚れを始末していく。
「……まあ、ジーク様ったら」
自分でもベタな動揺の表れが恥ずかしかったのか、ジークラインはややばつが悪そうな顔で机から離れて、ディーネの書類を手に取った。
ざっと目を通して、眉をひそめる。
「……これはなんだ?」
「あら、先物取引ですわ。ご存じありません? 未来の商品を全部売り抜けてやりましたの」
この世界にはまだ先物や信用といった概念がない。ただしそれに近い形態として、定期市での決算を前提とした手形を発行することはある。より正確に言うならば、銀行の在り方がまだまだ原始的で、為替と信用の概念が同一視されている、という感じだろうか。もう少し時代が進めば、別物として扱われるようになる。
ここでの取引は、いわゆる偽装為替の形式をとる。
ドライ・エクスチェンジとは、教会法の抜け道を利用した信用取引だ。
信用取引は教会が禁止する高利貸しの概念に当てはまるものではあるが、通貨の両替為替に偽装することによって難を逃れるのである。
今回のディーネも通貨取引の偽装為替としてお金を受け取った。
「半年後の定期市で品物を渡すという約束で、お金を先に振り込んでいただきましたのよ。これがその手形なのでございます。手形は……」
「知っている」
「では、解説するまでもありませんわね。こちらで目標金額を達成したのでございます」
ディーネの手元に商品の在庫はまだないが、半年後の定期市での物品引き渡しと、それができなかった場合のペナルティ条件も込みで証書を作成。現金として振り出せる為替手形を受け取ったのである。
こうすることにより、ディーネは新税の徴収を免れ、買い手も値上げ前にまとめ買いできて得をする。双方にとっていい取引だった。
「金だけ先に……ねえ。また妙なことを考えついたもんだ」
「大変だったんですのよ。寝る間も惜しんで取引先を探しましたわ」
一刻も早く取引を終えたいディーネはこの一か月間、まったく気が抜けなかった。
取引で得たものの内訳はこうだ。
毛糸の製品と引き換えに得た為替手形が粗利益換算三千枚分。
それと真珠の為替手形が売上高で三千三百枚分だ。
どちらもこの国の為替手形の形式としては異例の、半年後の引き渡しで契約が取れた。
本来、定期市での決済が前提の取引では、どんなに長くても定期市の開催間隔である一、二か月程度が限度だ。今回は引き渡しのときを遅く設定する代わりに、かなりの割安で提供した。
珍妙な契約条項に難を示すところが多く、なかなか決まらなかったが、極めて商品価値が高い真珠の特性と、織り手に対して不足ぎみの毛糸需要のおかげで何とかさばくことができた。ここから真珠の研究費三百枚と紡毛工場の建設費二百枚を差し引いた額が粗利益となる。
すでに十月末の時点で純利益として6,802枚分の金貨を得ている。
さらに十一月の収入も切り上げて、二十日分を先に計上した。420枚分のプラスで、7,222枚。
すべてを合計すると、大金貨一万三千と二十二枚。ギリギリ達成した。
ディーネが資産を預けているミナリール商会の為替と毛糸の為替、真珠の為替、その他もろもろをジークラインにつきつける。
「さあさあジーク様、わたくしが何もできない女だとおっしゃったことは撤回してくださいまし!」
ディーネは得意の絶頂だった。気分的にはテストでいい点をとってきた子どもである。むちゃくちゃがんばったので褒めてほしいというのが素直な気持ちだった。
ジークラインは、ああ、とつぶやいたきり、何も言わなくなる。
「……ジーク様?」
どうしたのだろうと思って顔を覗き込む。そんなに意外だったのだろうか。
「……よく、やったな」
下手くそな慰めを口にして、書類をディーネにつっ返す。
「大事なものだろう? そう簡単に他人に預けるな」
「他人だなんて、そんな……」
「他人なんだよ。これからはな。悪いが、一緒に喜んでやる気にはなれない。もう、俺のことは信用するな」
思いのほか深刻な反応が返ってきた。褒めてほしかったから頑張ったのに、あてが外れてしまったディーネは、ちょっと返しに困った。だいたい、この中のうち、大金貨三千枚分はジークラインのものなのに、彼はろくに見ずに全部を返してきているではないか。
「ジーク様、あの、これ……」
「……いつにする?」
もちろん婚約破棄のことだ。書類を受け取ろうとしないジークラインに戸惑いつつ、ディーネは答える。
「お父さまたちなら、しばらく屋敷にいるそうですから、そちらの都合のよろしいときで……」
「二、三日中には調整する」
「そうじゃなくて、ジーク様、あの!」
口数が極端に少なくなったジークラインに、ディーネは不安しか覚えない。
「こちらはジーク様のものですわ。ちゃんとご覧になりました?」
「見た。が、いらない」
「でも、こちらは、ジーク様がわたくしに押しつけたものですのよ? それで恩に着せられて、ひとりじゃ何にもできないだなんて言われて、わたくしとても不愉快でしたわ。ですからお返しいたします」
ジークラインが頑なに書類を受け取らないので、ディーネはだんだん腹が立ってきた。
「……ねえ、わたくしは返そうと思えば返せるんですのよ。ジーク様のご厚意はありがた迷惑だったのでございます。お分かりですの?」
「分かっている。いいから取っておけ」
「……本当によろしいんですの? これで婚約破棄の条件は成立したと思っていいんですわよね?」
「ああ」
言葉とは裏腹に、あまり納得がいっているようには見えない。それともそう思ってしまうのはディーネのほうに未練があるからなのだろうか?
ディーネは確かに金貨を言われたとおりに集めたけれども、なんだかちっともスカッとしない。もっと大げさに悔しがってくれるなりしてくれればいいのに、ジークラインは浮かない顔で黙るばかりだ。
従者たちの視線を気にして、そっと近寄って尋ねてみた。
「……ジーク様はどうなんですか? 私との婚約を解消するのは、いや?」
子どものような聞き方になったのは、そうだって言ってほしい、と思っているからだった。彼を悔しがらせてやらないことには、せっかくのがんばりが報われないではないか。