お嬢様のご決断 2
公爵令嬢のディーネはずっと婚約者の皇太子・ジークラインに従うよう言われて育ってきた。ディーネの意思など無関係に、そうすることが大事だと教えられてきた。もしかしたら、意思などないほうがよかったのかもしれない。それが物のようだといえば、確かにそうなのだろう。
ディーネはジークラインの婚約者であることを常に考えて行動するように教育されてきたから、どこまでが地の性格で、どこまでが作られたものなのかさえ分からないぐらいに、それが身に染みついてしまっている。今でもきっと、呪われているのだろう。
ジークラインから不利な状況に陥れられてもまだディーネが帝国を裏切れないと思うのも、あるいはもしかしたら、呪いのせいなのかもしれない。
状況はあまりにもこちらの不利なのだから、出来る限りのことをしたって、きっと神様は許してくれる。それで誰かが不幸になったとしても、ディーネのせいではない。本当に悪いのは、ディーネの自由を奪い、力を奪い、何もできないようにして囲い込んできたパパ公爵や皇太子だ。
それでも、とディーネは思う。
「勘違いなさらないでくださいましね、わたくしは誰にも義理立てなどしておりませんわ。これはわたくしがバームベルクの公姫として、帝国皇太子の妃として在ろうとしたからの決定ではございません。わたくしは、自分の意思で、バームベルクを守りたいのです」
ディーネの性格――皇太子妃に相応しい人物としての役割演技や、身分そのものは人から与えられたものだったとしても。
この意思だけははっきりと自分の持ち物だと言える。
「わたくしは、バームベルクが好きですわ。ワルキューレという大きな国の、大きな地方ですけれど、そこに住んでいる人たちのことを、これでも真剣に大切に思っておりますの。それぞれに自分の生活を持っていて、日々を懸命に暮らしている、そんな人たちを危険にさらしたくないと思うのは、ただわたくしが彼らのことを好きだからに他なりません」
小さな農民の女の子、ソルは、ディーネに踊りを教えてくれた。別の村では、女の子が花で作ったかんむりをくれた。日記を貸してくれた修道院長の先生、騾馬の行商人、何日も一緒になって研究に取り組んでくれた村人たち、公爵家の技術者たち。
「わたくしとて帝国の公爵家に生まれた貴族のはしくれですもの、売国奴に成り下がりはいたしません」
ディーネはパンをつかんで、昼食の席から立ちあがった。午後もまた会議があるのだ。のんびりはしていられない。
エストーリオは慌てたように、過ぎ去ろうとするディーネの背中に声をかける。
「あなたはよくても、スノーナビアの王弟はどうするんですか?」
「それはもちろん……」
振り向きついでににっこりと笑ってやった。
「帝国の思い通りにも、エスト様の思い通りにもさせません。ジーク様にはこれから倍返しする予定ですから、ご心配なさらず。なぜか皆さんわたくしのことを何もできない小娘だと思ってらっしゃるようですけれども、わたくしはもう、泣いてばかりいた子どもではございませんのよ。自分の身柄ぐらい、自分で買い戻してごらんにいれますわ」
自分でもいい笑顔だったと思う。なにしろエストーリオが困っていたくらいなのだから。
***
午後の会議でようやく解決の糸口が見えてきた。
「先方が取引をしてもいいと返事をしてきました」
「本当!?」
あとは書類を交わすだけだ。
代官たちが草案をまとめてくれた二か国語の商取引公証書を前にして、ディーネはちょっとくじけそうになった。
「これを読んだら終わり、これを読んだら終わり……」
気力を奮い立たせて取りかかったが、ディーネは外国の商取引について細則を熟知しているわけではないからあちこちで理解できない部分が出てきてしまう。いつも頼りにしているハリムはこの件でずっと方々へ出張しているので、分からないところがあってもすぐには聞けない。完全に行きづまってしまった。
干物になって机の上につっぷしていると、誰かがコトリと紅茶を置いてくれた。
「セバスチャン……」
「ご無理はなさらないでくださいね」
――ママ……!!
もはや彼はディーネの心の母である。
「ありがとう。すごく潤った」
「……? ……まだ紅茶に手をつけていらっしゃらないようですが……」
「心のお花が枯れそうだったの。でももう直った!」
「それはようございました」
セバスチャンのふわーんとした喋りを聞いているうちに、ディーネの緊張もゆるんでしまって、抱えていた書類を手放した。素人が時間をかけて考えても仕方がない。またハリムが帰ってきてくれるのを待とう。
「……ウィンディーネお嬢様」
セバスチャンは心持ちいつもより緊張した様子でディーネを見ている。
「どうしたの? 改まって」
「お嬢様が私にお命じになるのであれば、私は、傀儡の王となることも厭いません」
突然のことに硬直しかけたが、すぐにお昼のことを思い出した。
もしかしてエストーリオに何か吹き込まれたのだろうか?
「私が王となれば、スノーナビアの宮廷にお嬢様の居場所を作ってさしあげられます。私と一緒に、スノーナビアにいらっしゃいませんか」
――んん?
まるでプロポーズのようなセリフだ。
しかし日頃の彼の天然ぶりが即座に思い返されてしまい、考えすぎだろうと結論づける。
「ありがとう、でも大丈夫だって。皇宮には顔出しづらくなっちゃうけど、私にはまだまだバームベルクでやり残したことがあるからね。ここを離れるわけにはいかないの」
セバスチャンの表情がわずかに曇る。
彼は根が善人なので、ディーネのことを心配してくれているのだろう。自分を差し置いて親身になってくれるなんて、本当にいい子だと思う。
「それより私はあなたが心配。このままだとどっちに転んでも傀儡にされちゃうもの。それでも王様になりたいっていうのなら私は応援する。あなたはどうしたいの?」
彼にこれを尋ねるのはもう三度目だ。そろそろ王という身分に対して欲が出てくるころではないかと思っての質問だったが、相変わらず彼は浮かない顔で首を振るばかりだった。
「……私は、このままずっと執事を続けたく存じます。でも、スノーナビアはやはり母国ですから……兄たちが倒されるのを黙って見ているのは、辛いのです」
「そうだよねえ……」
パパ公爵たちはしれっとスノーナビア国王をフェンドル庶子公もろとも殺す気でいるが、セバスチャンにとってはどちらも兄なのだ。
「……お館さまにはご恩がありますから、私には何も申し上げられませんが……できれば、スノーナビアへの侵略などはやめていただければどんなにいいかと、考えてしまいます……雪深くて、魔法石以外には何にもない国ですが、私にとってはかけがえのない故郷なのでございます」
誰だって祖国を荒らされるのは嫌だ。セバスチャンの心情は察するに余りあった。
「……となると、フェンドル庶子公の暗殺計画はなんとかして取りやめさせないと」
「そうなれば一番いいのですが……」
「任せて。ちゃんと考えてあるから」
そう、方法ならいくらでも考えつくのだ。何も怖気づくことはない。
「セバスチャンはうちの優秀な執事なんだから、どこにも渡さないわ」
ディーネが力強く請け負うと、セバスチャンは目を丸くして……大きく笑み崩れた。
そのときのセバスチャンの笑顔を、ディーネは生涯忘れないだろう。
「はい。私はどこまでもお嬢様について参ります!」
「いいお返事です」
――まったくうちの執事は最高ね。
可愛いセバスチャンのためにもがんばらないといけないとディーネは思った。