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水門の利権をめぐる話し合い・上


 公爵家に生まれたディーネは前世の記憶を持ち合わせている。たまたま歴史が得意だったので、領地を住みよくしようと努力していた。


 現在はヨハンナにアプローチ中だが、他の仕事ももちろん進めている。


 その日はゼフィア地方の権力者であるエストーリオと雑談をしていた。先日からずっとゼフィア領内を流れる川の工事で揉めているのだ。


 ディーネの部屋の応接間に、エストーリオが座っている。侍女たちもそこらへんにいるが、同席させてはいない。この戦いについていけないからだ。


「……結局、お父さまは水門の権利を放棄したということですけれど、わたくしは納得しておりませんのよ」


 水門の権利は絶対に必要だ。こちらの小型船舶は標準で百五十トンほど荷が積める。対して馬がけん引できる荷物の量はたったの一、五トン。単純に比較して、船一艘から取れる税金の額は一頭立て馬車の商人百人分である。新しく道を作ったとして、一日あたり十万台の馬車を通過させるのは物理的に不可能だが、運河に船千艘を通すことは問題なく可能だ。


 つまり、橋や道路など作って喜んでる暇があったら速やかに運河を作れ、ということである。ヴァイキングたちがノルマンコンクエストで無双できたのはなぜか? 高度な造船技術を持っていたからである。大航海時代のスペインが太陽の沈まない国と呼ばれたのはなぜか? 外洋航海船の儲けは陸路の比ではないからである。シャンパーニュの大市が世界有数の商取引場に発展したのはなぜか? イル=ド=フランスの河川交通網が発達していたからである。


 パパ公爵があっさりと手放してしまったのは、商売に興味がないからなのだろうが、ディーネとしては看過できないことだった。こんなことならジークラインに逆らってでもついていけばよかった。


「そうは言われましても……」


 エストーリオはにこやかだが目は笑っていない。


「……失礼ながら、フロイラインには何の決定権もないはずですが」


 領主代行とはいえ、ディーネは女性。帝国は伝統的に女性の政治参加を認めていない。


「つれないことをおっしゃらないで? わたくしいいアイデアを持っておりますの。きっとエスト様もお気に召すはずですわ」


 ディーネが持参したのは、新たな運河の計画書だった。


 水門のうまみは大きい。小型船舶の段階でもそれは明白だが、将来的に絶対来るはずの外洋航海船の時代には、その何倍もの税金が取れるようになる。

 だから、今のうちに、多少損をしてでも権利は取っておくべきなのである。


「わたくしどもバームベルクの領地に、フラウ川があるのをご存じ?」

「ええ……」

「こちらの地図をご覧になって。フラウ川は川幅が広く流れが穏やかな大河で、下流はたくさんの国と、海につながっておりますでしょう?」

「そうですね」

「このフラウ川とゼフィアのソフィア川を運河でくっつけるとしたら、いかが?」


 エストーリオは答えに窮したように、二、三度まばたきをした。


「ソフィア川の交通も便利になって、よりゼフィアが発展するとお思いになりません?」

「……そうですね」

「ゼフィアに船が集まればより水門の価値も高まるというものでございます」


 エストーリオは河川の事情に特別詳しい訳ではないから、聞き手に回るしかない。


「……こちらの工事と引き換えに、バームベルクが利益を一割いただくというのはいかがでしょうか」


 エストーリオは思案顔だが、川の流れを指でたどってみて、やがて首を振った。


「フラウ川はバームベルクの主要水路ですから、十分利益が取れるでしょう? なにもわざわざソフィア川のようなちっぽけな水路から料金をせしめる必要はないように思いますが」

「あら。ではお断りになるの? でしたら結構ですわ。その場合は……」


 話の流れに予測がついていないエストーリオに、ディーネは分かりやすく地図に線を引いてあげた。


「ソフィアではなく、すぐそばの別の河川と工事をしてもいいのですけれど、いかが?」

「それは……」


 他の道にバイパスができれば当然ソフィア川は不利になる。お客をごっそり取られてゼフィアは辛い立場に立たされるはずだ。


「うちは巡礼客の需要だって多いんですよ? 田舎の水路とつなげるよりは、ゼフィアに水路を開いた方がそちらとしても利益が大きいはずでしょうに」

「ですから、水門の利益一割で手を打ってさしあげると申し上げております」

「またあなたは無茶を……」

「ねえ、運河の建設費はこちら持ちで結構ですわ。フラウ川は他の河川ともつなげてゆく予定ですから、ゼフィアとしてもつながっていたほうが絶対にいいはずですわよね?」


 エストーリオはしばらく地図を眺めていたが、やがて言った。


「私はそれほど水門のことに詳しくありませんから、少し検討したいと思います。こちらの資料はいただいても?」

「ええ、どうぞ」


 そして数日後に、エストーリオはまた書類を手にして戻ってきた。

 前回よりも一段とはりつけた笑みになっているので、おそらくよく吟味してきたに違いない。


「いくつか質問がありますが、よろしいですか? まず、フラウ川とソフィア川をつなぐ工事はあまり現実的でないように思います。距離がありすぎますし、このあたりは山が多いですよね? 船が通れる平坦な水路を作るのは困難かと」

「あら、いい点にお気づきになりましたわね」


 バームベルクの運河で使われている水門は初期のポンドロック型だ。宇宙船の減圧室のようになっていて、二つの水門を開け閉めすることで水位の差を調整する。しかしこのやり方だと、標高差が数メートル以内のものにしか対応できない。


 ではどうやって数十メートルも標高差がある運河をつなぐのか?


 水門を十個二十個と単純につなげて連続閘門こうもんにしてしまえばいいのである。

 排水の仕組みなどはもちろん工夫しないとならないが、それだって今ある技術で十分に応用可能だ。

 現在この世界に存在する水門はすべて木製だが、強度を考えて、コンクリート製に変える予定である。


 コンクリートの技術そのものはワルキューレにもすでに存在する。地球でも古代ローマ時代から存在していたし、水道もコンクリートで作られていた。ローマン・コンクリートの建築物は現存するものがあるぐらい頑丈だが、水道のほうはまた少し事情が異なる。ありていに言って、壊れやすいものだったらしい。


 なぜか? ――当時の数学は、古典力学がようやく芽生えたばかり。流水を扱うための計算式が不完全だったのである。さらに、熱膨張の原理が知られていなかったことも影響している。鉄道やアスファルトなどもそうだが、ふつう長い構造物を建設するときは膨張してもいいようにジョイントを設ける。水道橋などは外気に晒されている部分の気温と水温に著しい温度差が発生するので、疲労を起こしやすい。それで水道は通常の建築物よりも壊れやすくなっていたのだった。


 以上を踏まえてバームベルクの数学者に確認したところ、帝国では水道の技術が進んでいるので、サイフォンの原理と熱膨張ぐらいは認知されているらしい。ただし、水の位置エネルギーの保存則についてはよく分かっていなさそうだった。


 さもありなん。流速や水頭の計算になるともう物理学の世界になるので、ニュートン級のひらめきができる科学者がいないと発展のしようがない。

 ではワルキューレの技術者がそれらなしにどうやって数値を求めているかというと、たとえば水量などは、水の流れをせき止めて空っぽの池に貯め、単位時間あたりの量を測るという、無理やりな解決法が取られていた。水道管に至っては素材と大きさがきっちり規格で決まっているので、とにかく測量すればだいたいのことは分かるようになっているらしい。物理学ではないが、ある意味で物理だ。


 以上のことからも分かるように、この世界の治水工事は、古代ローマや中世ヨーロッパと同様、なんとなくふんわりとした経験に基づいて行われている。


 それでは正しい公式を――といきたいところだが、ディーネは水路の計算を受験でしかやったことがないので、どうあがいても伝授のしようがなかった。うろ覚えのベルヌーイ定理がせいぜいだ。


 前世ではコンピュータ全盛の時代にこんなもの手計算して将来なんの役に立つんだとずっと思っていたが、こうして使う機会が出たことに自分でも驚いた。そして分からない問題をかたっぱしから大手サーチエンジンの数学APIにかけて書き写していた学生時代を呪った。あのときちゃんと手で計算していればもう少し覚えていたかもしれないのに……人間何でも挑戦しておくものである。


 ともあれ、物理での測量であろうがなんであろうが、水量を把握することは現時点でも可能だと分かった。

 そうしたら必要なコンクリート幅の計算までもうあとちょっとだ。水一立方センチメートルあたり一グラム重の水圧を考慮すればよい。水深に比例して強くなる水圧と大気圧も考慮に入れればだいたいオーケーのはずだ。


 運河の水量を求める公式も、実験を重ねれば導きだせないこともない、と思う。そう信じたい。ちなみに水量の計算式は断面積と流速を掛ければ求められるが、問題はその二つの算出法だ。


 受験でやった管路の計算では単純に円の面積を求めればよかったが、運河の場合はそう綺麗な式にはならない。流速を求めるにはベルヌーイ定理を使うことになるが、もちろんこれは理論値なので損失係数なども適宜考慮せねばならない。この辺の厳密な計算をやるとなると、受験数学程度ではまったく歯が立たないのである。


 しかし、測量の技術がそれなりにあるのなら、こまかい測量を積み重ねて無理やり把握するという方法もなくもない。


 流体力学的な部分を厳密に計算するのはディーネの学力の限界もあり、難しいだろうが、いざとなれば予想される水圧を多めに見積もって作っていくこともできる。壊れたらまた直せばいいのだ。地球の河川工事もそうやって発展してきたのだから。


 こうしてコンクリート製の連続閘門も実現に近づいたというわけなのだった。


ベルヌーイ定理

全水頭=速度水頭+位置水頭+圧力水頭。


運河の流速を求めるにはベルヌーイ定理だと不十分

マニングの公式によると、開水路の流速は勾配と径深と粗度係数によって求められる。

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