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使ってはいけない化粧品ベスト200(200あるとは言ってない)


 十月も半ばを過ぎた。

 弟たちは学校へリターンし、ディーネの部屋は一気に静かになった――かというとそんなことはない。

 今日はエストーリオが遊びにきていた。侍女や使用人が行き来しているのでお茶ぐらいは一緒にしても平気だとは思うが、何食わぬ顔で来られると少し変な感じがする。


 勝手に侍女たちとも打ち解けたエストーリオは、ディーネに相談事があると言った。


「実は今度、皇宮で宗教劇をやることになっているんですが」

「まあ……」

「私もバームベルク公爵夫人に誘われて劇に参加することになっていまして」

「それはおめでとうございます」

「それでよかったら聖母の役をフロイラインにお願いできないかと思って来たんです」

「わたくしが……?」


 宗教劇はその名の通り、聖書の逸話を再現する劇である。

 中でも聖母が出てくる劇は少なく、聖母の役といったら自動的に主役と言っても過言ではない。


「どうしてわたくしなんですの?」

「もともとはザクサーノ伯爵夫人に決まっていたんですが、お化粧がきついことを注意したら役を降りると言ってきかなくなってしまいまして」


 ディーネはあやうくお茶を吹きそうになった。

 ザクサーノ伯爵夫人――ヨハンナとは、先日も会ったばかりだ。


「だって、宗教劇ですよ? 聖母の役ならうら若い女性がやるべきでしょう。しかもお化粧で真っ白の聖母なんてありえませんよね?」

「……エスト様って結構毒舌ですわよね……」


 教会的にはお化粧などはタブーであるので、エストーリオが注意するのも分からなくは……いや、やっぱり分からないなとディーネは思った。

 ヨハンナは派手好みで厚化粧であるが、宮廷の女性は誰しもそんなものなので、彼女だけが特別に虚飾の罪を犯しているわけではない。

 とはいえ、面と向かって男性に厚化粧を注意されるのはキツいだろうなと、ディーネはつい同情してしまった。相手が化粧などとは無縁の美しい男性だったらなおさらだ。エストーリオは女性でも敵わないほどの美人なのである。


「彼女がへそを曲げてしまったせいで、誰も後釜をやりたがらなくなってしまったんですよね」

「それはそうですわ……」


 後任はもれなくヨハンナの恨みを買う。彼女は蛇のようにしつこく執念深い。損な役回りだから、誰もやりたくはないだろう。


「公爵夫人に相談したら、フロイラインが適任だとおっしゃってましたので、お誘いに参りました」


 確かにディーネはこれ以上ヨハンナに嫌われようもないから、適任といえば適任だ。


「……なんでそんな空気の読めないことをやらかしましたの?」

「私は事実を述べたまでですよ」

「エスト様はもっと計算高い方かと思ってましたけれど……天然でやらかしたのなら、ちょっと反省なさった方がいいと思いますわ。それ、その場の女性のほとんどを敵に回したはずですわよ……」

「それはそうかもしれませんが……」


 ディーネが冷たい視線を向けると、彼はちょっとだけ口をとがらせた。いい大人のすることじゃないが、彼はあまり年齢や性別を感じさせない無機質系の美人なので、不快感はそれほどなかった。


「……もちろんわざとですよ? あなたは昔、よくザクサーノ伯爵夫人に泣かされて帰ってきていたでしょう。いつか機会があったら意趣返ししてやろうと思っていたんですよ」

「また余計なことを……」

「つい先日も彼女に嫌がらせをされたばかりなのではありませんか?」


 その通りだが、エストーリオにそれを教えた覚えがない。


「心を読んだわけではありませんよ? 休憩中にザクサーノ伯爵夫人が取り巻きたちと話しているのを聞いたんです。あんなにひどい悪口は久しぶりに聞きました」

「あぁー……」


 先日、さんざんやり込めたことはやっぱり根に持たれていたらしい。


「皇宮の勢力図を塗り替える手伝いをしてさしあげようと思ったのですが、かえってご迷惑だったでしょうか……」

「お気持ちはうれしいですけれど……」


 宮廷社会の複雑さを思うと、にわかには歓迎しがたい親切だった。


「エスト様の思惑は分かりました。でも、だからって、女の化粧に口を出すのはちょっとやりすぎです」

「でも、彼女にはそのぐらいすべきだと思ったんですよ。本当にあなたのことをひどく言っていたんですからね。あなたもやり返したいと思ったりするのではありませんか?」

「まあ……そうですわね」


 彼女にイジメられどおしだった日々からすると、まあ多少は自業自得だと思わないでもないが。

 ヨハンナはクラッセン嬢の容姿のことでさんざんケチをつけてきたのだから、自分が言われる覚悟だってしていたはずだ。撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけなのである。


「……とにかく、わたくしは忙しいんですのよ。聖母の役はお受けいたしかねます」

「そうですか……分かりました。差し出がましいことをして申し訳ありませんでした」


 素直に謝ってくれたので、これ以上は追及しないでおこうとディーネは思った。


***


「お化粧ねえ……」


 ディーネが化粧をしないのは、宗教的なタブーというのもあるが、お化粧品に含まれている成分が危険だからだった。


 ディーネは外出先でひとつ思いついて、ワルキューレでもっともよく流通しているおしろいを買ってみた。

 粉は真っ白でサラサラしている。手触りは現代日本で流通していたルースパウダーなどとさほど変わらない。

 これの主成分は鉛白。鉛を主成分とした白色顔料である。


 鉛は人体に有害だ。

 取りすぎれば中毒症状を起こし、肌はボロボロになって、最悪の場合は死に至る。徳川家の第何代かは忘れたが、乳母が使用していたおしろいの鉛が原因で健康を害した将軍もいたはずだ。

 それほど危険な代物を、どうして女性たちは使い続けたのか?


 サラサラのおしろいを少量手に取り、軽く肌に塗ってみた。使い心地は悪くない。

 この手触りのよさ、高い美白作用などにかなう代替品が、地球史では長いこと発見されないままだったのである。


 最終的に石油科学から生み出された化粧品が主流となるまで、洋の東西を問わず、ずっと使われていた。


「あらディーネ様、お化粧品なんか手にしてどうしたんですの?」

「んー……ちょっとね」


 ジージョはちょっと怖い顔をした。


「いけません、ディーネ様にはまだ必要ありませんよ。もっと年を取って、誤魔化しがきかなくなってきてから使うものでございます。若いうちから使っていると肌がボロボロになってしまいますよ」


 鉛白の負担はジージョの言う通りだ。


「次の商品なんだけど、もしも危なくない成分のお化粧品があったらどうかなと思って。使ってみる気になる?」

「あら、よろしいんじゃございません? そういうものだったら使ってみたいですわ」


 保守的なジージョがそう言うのなら、同じように考える女性は多いと見てもよさそうだ。

 ディーネは化学薬品担当の錬金術師に相談しようと、離れを目指した。


***


 粉おしろいに使える成分の代表例といえば、酸化チタン、酸化亜鉛、それにコーンスターチなどだろうか。いずれも無害な白色顔料でキラキラとよく光り、カバー力は絶大である。


 酸化亜鉛の化学式はZnO。つまり亜鉛を含む鉱石を燃焼するだけで得られる。沸点はそれほど高くないので、原始的な炉でも精錬可。難易度はかがくのじっけんレベルだ。


 そんなに難しくない金属であるにも関わらず、酸化亜鉛を使った化粧品が開発されたのは十九世紀になってからであった。その後もずっと鉛白の化粧品は健康を害すると分かっていても主流であったので、ほとんど見向きもされなかった技術といっていい。


 酸化チタンは少しややこしいが、天然の結晶が取れるので、砕くだけでこと足りた。


 酸化鉄は着色料で、いい感じの赤色にするのに必要だ。黄色っぽいニュアンスを出すにはカラメルを加える。コーンスターチを加えると感触がよくなる。


 適当な割合で混合し、テストを重ねる。


「……だいたい似たような感じには仕上がったけど……」

「使い心地はやっぱり従来品のほうがいいですね」


 そうなのである。


 安全な代替物があったにも関わらず、鉛白の化粧品はその後も使われ続けた。鉛白の快適な使い心地や美白作用は唯一無二のものなのである。


「もうちょっと時間をかけて改良しないとだめかもしれないね」

「そうですね、時間と予算があればもっといいものはできそうです」


 しかし今回は仕方がない。なんとか間に合わせでやるしかない。


 鉛の健康被害を民衆に啓蒙し、より安全な品を普及させるにはやはり、広告塔のようなものがあったほうがいい。


「……宗教劇の主役にひと肌脱いでもらおうかしら?」


 大嫌いな相手だが、恩は売っておくに越したことはない。


***


 ところ変わってジークラインの部屋。


「……というわけで、明日はヨハンナ様のところに行ってくるつもりですの」

「本気か?」

「ええ」


 ジークラインがなんと言ったらいいのか分からない顔をしている。

 ヨハンナからイジメられたことをジークラインに告げ口したのはつい最近のことだ。


 ジークラインが変な顔をしているので、ディーネはおかしくなった。


「何ですの? 女同士のことですわよ。ジーク様がご心配になるようなことではございませんわ」

「そうは言うがな……」


 彼は返事をしつつ、剣の手入れを再開した。何でも重たすぎて他の人には手入れができないらしい。汚れを落としていく作業も手慣れたものである。血でべったりなところを見ると、今日もたくさんぶった切ってきたらしい。


「お忙しそうですし、わたくしはこれで失礼を……」

「待て。俺が忙しそうに見えるか? 気のせいだ。俺に仕留められないドラゴンなんざいやしねえ。むしろ退屈なぐらいだ」

「まあすごい」


 賛辞に心がこもらなかったのは致し方ない。どうして彼はこう偉そうなのだろう。


「それよりなんだ、んな暇があるくれえなら、お前が主役をやりゃあいいだろうが」

「わたくしが?」

「サクラでも仕込んでいい劇だったって宣伝すりゃいいだろ。お前はいい宣伝になって、ヨハンナは悔しがらせてやれる」

「まあ……」


 確かにそのぐらいの仕返しならばいかにもよくある女性同士の戦いという感じで、ふさわしいかもしれない。

 それでも、ディーネにはまた別の考えがあった。


「わたくし嫌ですわ、いつまでもいがみ合っていたって誰も幸せにはなりませんもの。それよりヨハンナ様を綺麗に飾り立てて、あなたが主役よって言ってあげたほうが平和になると思いません?」


 張り合ったりするからいつまでもライバル意識を持たれてしまうのだ。

 ディーネに勝負する気がないと分かってもらえば、この奇妙な縄張り争いのようなものは終わりに近づくに違いない。


「今回のことで仲良くなれるといいのですけれど……」


 ディーネのつぶやきに、ジークラインは小さく「そうだな」と答えた。


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