武力強化法案
公爵令嬢のディーネは婚約の破棄を目指している。
皇太子の嫁は気苦労が絶えないのである。
先日も宮廷の貴婦人にイビられたばかりだ。
「ザクサーノ伯爵夫人に思いっきり嫌味を吹き込まれましたわ。ジーク様ほどの御方が浮気をなさるのは甲斐性なのですって。耐えるのが妻のあるべき姿なのだそうですわ」
ジークラインの部屋にやってきたついでに、ディーネは不満をぶつけてみた。
これまでの彼女はおとなしく黙って耐え忍んでいたが、今はもうそんなことはしない。前世の記憶が戻ったときに、馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
「低俗な会話だな」
皇太子の返事はにべもなかった。
女の世間話なぞにかかずらわってる暇はないと言わんばかりの回答だ。
ディーネも低俗だとは思うが、訴えたかったのはそこじゃない。
「……でも、宮廷で恋愛が流行ってるのも事実ですわ」
「俺はそんなものに興味はない」
再びばっさりと切り捨てるジークライン。
聞きたかったのはそれだが、感じが悪いので全然うれしくなかった。
「でも、皆さんはとっても楽しみになさっているんですのよ。ジーク様のご興味がどちらの貴婦人に移るのか……」
まだまだ残っている不満をぶつけるようにしてぐちぐちと食い下がると、彼は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「俺の気を引きたいんなら、俺を楽しませる努力をしろ」
――何様……
彼の厨くささに慣れているディーネもドン引きである。
「まあ、たくさんの女性に目をかけていただいてジーク様はお幸せですわね。わたくしはもう関知いたしませんわ。どうぞ、ご勝手に」
「馬鹿、俺はお前に言っているんだぞ。俺の寵愛が受けられるかどうかはお前の努力次第だ。捨てられたくなきゃ、せいぜい俺を面白がらせろ」
「はあ!? なんで私が!」
いくらなんでも看過できないと感じてディーネは声を荒らげる。
「犬じゃあるまいし!」
「嫌かよ。だったらくだらないことですねるのはよせ。俺にはお前が嫉妬してるようにしか見えないが」
「ち、ちがうし! そんなんじゃないし!」
めちゃくちゃな言葉遣いで慌てふためくディーネを、ジークラインは引き続き小馬鹿にしたような表情で見ている。ムカつくがやっぱり顔立ちは渋い。カッコいい。それがまたムカつく。
「だいたいなぁ、なんで俺が浮気することになってるんだ。お前の刻印は何のためについてると思ってやがんだ」
「刻印が何か……?」
「お前は俺が他の女と遊びほうけてるのを察知したことがあるか?」
「……ええと……」
「言っとくが、かなり不快な感覚がするからな。気づきませんでしたってことはない」
「はあ……」
例の変な婚約の証は、どういう仕組みなのか、浮気防止装置つきの魔法契約なのである。
処女性重視の宗教観から生み出されたものなのだろうが、はた迷惑な機能だ。使用人が身近に大勢いる貴族にとっては異性との接触禁止というのはあまり現実的ではなく、日常生活が不便なことこの上ない。ふつうの人間は何かあったら転移魔法で飛んでくる、なんてことはできないので、誤解と悲劇が生まれるだけであまりメリットのない魔法でもある。
聞くところによるとあの刻印は『婚約式』で入れるのが普通なのだそうだ。
『婚約式』とは、この世界独自の結納の儀式で、結婚式の数か月前に行なわれることが多く、当日に解除される。長くても三年以上にはならないケースがほとんどだと聞いた。幼い頃から契約を結びっぱなし、というのはとても珍しいらしい。
つまりこの人は小さな頃からずっと女性と接触していないのか、と考えて、ディーネは変なうめき声が出た。
「なんだ。何かおかしいか?」
「いえ、だって、ジーク様、女性には困ってないってこないだ豪語してらしたのに……」
「困ってねえよ。お前がいたら十分だ」
とどめを刺されてディーネは完全に沈黙した。
ジークラインが薄ら笑いを浮かべてこっちを見ているので、たぶん喜んでいることはバレている。人の精神状態を勝手に読むのはやめてほしい。
しかし口だけならなんとでも言える。
この世界の恋愛はなんといっても不倫が主流。結婚したあとが本番だ。いろんな勢力がジークラインの機嫌を取ろうときれいな女性を送り込んでくるだろう。ザクサーノ伯爵夫人のような敵対派閥の女性とも戦わなければならない。この間の嫌がらせもひどかった。神経がガリガリと削られた。
あの嫌な時間をこの先何度も経験しなければならないのかと思うとぞっとする。とっとと婚約を破棄して楽になってしまいたい。
うつうつとしてきたディーネの顔色を読んだのか、ジークラインも笑みを消した。
「……しかし、ザクサーノ、か。お前も世話になってんなら、何かしら考えたほうがいいのかもな」
ディーネは鼻白んだ。
先ほどまで女のたわごとだと馬鹿にしきっていたくせに、いきなり手のひらを返してくるとは。
「あら、低俗な会話だから興味ないとおっしゃったばかりですのに?」
「なに、たまには可愛らしい婚約者どののために時間を割くのも悪くはない」
――にゃーん。
いったいこの人はどうしてしまったのだろう?
最近のジークラインは言動がおかしい。いや、言語センスがおかしいのはいつものことだが、おかしさのベクトルが違う。普段の彼はもっと俺様で偉そうで上から目線で……とにかくこんな人ではなかったような気がする。
「ザクサーノには俺も最近世話になってな」
ディーネが何も言えないでいると、ジークラインは話題がなくなったのか、どうでもよさそうに最近のザクサーノ伯爵の動向を話し始めた。
なんでも彼らは議会でドラゴン騒動について取り上げているらしい。
ドラゴンへの対抗措置を地方でも講じたい、ということで、中小貴族の武力強化などを訴えているのだそうだ。たとえば城砦の拡張工事の許可、たとえば魔法石の保有量引き上げ。
魔法石は個人が所有できる量が国によって制限されている。これはまあ、当然の規制だ。たくさん貯めこまれて反乱でも起こされたら脅威である。
反乱を誘発するような危険法案なので、この『中小貴族の武力強化法案』はずっと無視されていた。
ところが、ドラゴン騒動が長引くにつれ、迎合する中小貴族の数がどんどん増えて、おいそれと覆せない席数になってきているらしい(説明するまでもないことだが、議会制を取っている国の政治は味方の席をいくつ取れるかで決まってくる)。
ヨハンナの結婚相手であるザクサーノ伯爵も、この流れに乗ってしまったようだ。中堅どころの貴族たちにとっても、魔法石の保有量引き上げなどは魅力的な案なのだろう。
現在のところはバームベルク公爵らを筆頭とした『騎竜』持ちの貴族たちが最強なので、上が理不尽なことをやっていても中小貴族たちには手が出せないが、魔法石の保有量が増えれば戦力差を埋めることができる。騎竜議員と対立するのならぜひとも成立させたい法案だろう。
要するに、ホウエルン卿たちが火の元となり、ドラゴン騒動で焚きつけて、とうとう中堅貴族たちまで取り込んでしまったわけなのである。
爵位貴族は軍隊や会社とは違う。
下位貴族は上位貴族に絶対逆らえない、というようなものではない。
バームベルクが最上位の公爵貴族だからといって、下位の貴族が盲目的に服従するかといったらそんなことはないのだ。
「それならさっさと首謀者を処断して、決着をつけてしまえばよろしいのに」
「それがなぁ……」
自然な感想を述べると、ジークラインは何かを言いかけてやめ、考え込んでしまった。
まことに忙しそうなことである。
議会に軍隊にと考えることが山積みのジークラインにしてみれば、ディーネがよその奥様に少し嫌味を言われた程度のことなど、どうでもいいことのように思えるのかもしれない。
彼の忙しさが分かるだけに、ディーネはまた憂鬱になってきた。
女性同士のことは彼女自身で決着をつけるのが一番望ましいのに、ディーネはそれさえできずにこうしてジークラインに泣き言を述べている。ディーネなりにがんばったけれど、やっぱりどこまでいっても彼に釣り合うような女性になれそうもない。
――でも、あと少しだもんね。
婚約を解消してしまえば、もう悩むこともなくなるのだからと考え直して、ディーネは憂鬱な気持ちをやりすごした。




