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紙とインクの開発秘話


 毛糸の工場を建てるついでに、もうひとつ考えていることがあった。


 ディーネは試験運転中の紡毛工場から、繊維のくずをたくさんかき集めて袋詰めにし、公爵家まで運び出した。

 軍事部門の研究開発を行っているスタッフを集めて、それを見せる。


「これね、原毛のクズなの。梳毛そもうにかけられなかった、短い毛くず。これを使って、あるものの機械を開発してほしいの」

「あるもの……とは?」


 ディーネはあらかじめ招聘しておいた外国人の講師をみんなに紹介することにした。

 『あるもの』の作り方は事前に他国から情報を仕入れてある。


 紹介された男は鉄の鍋に羊毛クズをどさどさと放り込んだ。


「――紙。製紙の工場を作ってほしいの」


 この国における紙の主流は獣皮紙だ。

 これはワルキューレが森林資源に乏しい地域にあるからである。しかし木材が豊富な地域では製紙の技術がすでに確立されていて、植物繊維を使ったものが出回っている。


 が、紙とは何も、植物繊維でなければ作れないというものではない。


 廃材の羊毛繊維を混ぜ込むことにより、もっとローコストで作成できるようになるのだ。


「キューブ。今ある紙だとインクがうまく定着しないって話だったよね?」

「ええ、手書き用のものはインクのりが悪く、にじみやかすれが発生します」

「それについてちょっと考えてみたんだけど、たぶん紙の質の問題もあると思うのよ」


 従来の紙というものは鷲ペンで引っかいても耐えられるようにと、膠で少し硬めに仕上げられることが多かった。しかしそうすると、今度は印刷のときにうまくインクが固着しないのだ。


 インクを定着させるために、わざわざ紙を水で濡らして柔かくしてからプレスにかけたりもしているらしいが、濡れた紙だとインクがにじんで使えないということだった。


 ディーネが前世でよく目にしていたパルプ製の書籍はあんなに硬い紙ではなかった。やわらかくすれば一定の成果があがるはずなのだ。


「手書き用の紙とは全く違う、印刷用の紙を作りましょう」


 こちらも教会との共同慈善事業に使用する予定なので利益は度外視する予定だが、コストダウンするに越したことはない。


 印刷用の特殊な紙の開発製造、活字の補充……

 印刷機械を国に根付かせるため、やるべきことはまだまだたくさんあった。


 講師の男は終始外国語で実演をした。まず羊毛を煮詰めて塊にし、細かくみじん切りにして、簾で薄く漉く。ディーネの通訳が書記官によって書きとめられる。


 最後に、均一にならした紙を糊で固めるとできあがりだ。

 糊にも色々あるが、ジャガイモ由来のでんぷんのりならほとんど無料に近い値段で手に入る。


 つまりこれは廃材を利用して、ほぼ原価ゼロで作れる商品となる予定だった。


 紙は一晩重しをして、さらに乾燥の工程を挟む。


 ディーネは一通りの説明が済んでから、すでに出来上がっている用紙を取り出した。


「……で、これが完成予定の紙ね」

「おお……」

「これが……!」


 時短のお料理番組方式の説明が、ディーネはとても気に入っていた。みんなの驚いた顔が見られるからである。


 ディーネがあらかじめ試作させておいた紙は、硬すぎる紙よりもインクの定着がよかった。しかし――


「やっぱりカスレが出ますね」

「本当ね……つきが悪いわ」


 紙によっては読めないものも出てきてしまう。


「インクの原料は何なの?」

「は。煤に水と樹脂を加えたものですが……没食子のインクは金属腐食性が強いため、使用しておりません。活字を痛めてしまうので」

「樹脂……樹脂ねえ」


 なんでも、とある樹木の皮を傷つけるとドロリとした液体が取れるのだという。水で溶いたこの樹脂を煤で黒く着色したものがこのインクらしい。


 サラサラした液体のインクを傾けてみる。まるで書道で使う墨汁のようだと、関係のないことを思う。あっさりとしすぎていて定着が悪い。眺めているうちにピンときた。


「ああ、そうか。これ、水溶性のインクなんだ」


 水性インクのつきが悪いのは当然だ。水で濡らした紙など使えば、色にじみもしたことだろう。


「油性のインクを作ればいいんだ。なんだ、そっか……」


 気づいてしまえばなんてこともない。


「油を混ぜるのですか?」

「そうね、油を使う絵具って何かなかったかしら? その材料を使えばいいだけなのよ。テンペラとか? なんかそういうのよ」

「テンペラは、卵ですが……」

「あれ、そう? でもたぶん、卵でもうまくいくと思う。いくつか作って試してみて?」


 研究員たちの手によって、いくつか試作用の材料が運ばれた。

 亜麻仁油、オリーブ油、卵などだ。煤と混ぜ合わせると、艶やかな黒色を帯びる。中でも亜麻仁油で作った粘り気のある液体は、ニオイも含めて、ディーネが転移させた印刷機に付着していたインクにそっくりだった。


「これがいいわ」


 かくしてディーネが選んだ亜麻仁油のインクで試し刷りが行なわれることになる。

 まんべんなく金属活字に刷毛で塗る作業でも、水溶性のインクと違い、表面張力で逃げてしまうこともなく、ねっとりとよく活字に絡んだ。紙をセットして、手回し式のハンドルを回してプレス。


 慎重に取り出された紙には、黒々とした美しい印字が踊っていた。


「どう?」

「おお……」


 ディーネがちょっと得意げに紙を見せびらかしても、彼らはみな一様に疑わしげな顔をした。反応が悪いのは、理系の研究員が集まっているからである。彼らは研究結果や事実内容の確認には熱意を示すものの、おべっかで公爵令嬢に取り入って便宜を図ってもらうといったようなことには興味を持たないのだ。


「目視のつき具合は問題ありませんね」

「実用可能かもう少しテストをしてみないと」

「紙もまだ研究の余地が」

「そうね、あとは紙の実用化をするだけね。製紙の工場の建設計画、よろしくね」


 ディーネは研究員たちにその場を任せて、一歩引いて、彼らの討論を見守ることにした。

 製紙の工程に必要な作業がリストアップされ、どうやって機械に落とし込むかの議論が始まる。技術的なことが分からないディーネは早々に飽きてきた。


 ――インクは用意できたし、紙の量産も目途がついたし、あと足りないのは……


 脳内で製本に必要な工程をリストアップする。

 製本にはまだあとイラストをつける作業や、カバーをつける係なども必要なのだが、そちらはとくだん新しい技術が必要というわけでもないから、領内の修道院に多数在籍している写字生たちに任せればいいだろう。


 ついでに印刷工場を各地の修道院に建てて回ったらいいかもしれない。写字生たちにすべての作業を行わせれば新しく人を雇わなくていいし、失業者も抑えられる。



 会議はいい感じに進み、いよいよ出版物の内容を検討する段階に入った。

没食子のインクは金属腐食性がある

pH2~5、レモンと同程度の酸性なので、金属は溶ける。

紙もだんだん溶ける。


墨汁のようなインク

中世ヨーロッパのインクにはアラビアゴムが広く使われた。

多糖類で良好な乳化作用と粘性を示し、水溶性。

(タイヤに用いるゴムは炭素から成るので、まったくの別物。)

水溶性ゆえに活版印刷には適さなかった。

没食子インクもアラビアゴムの乳化作用でできており、水溶性。


油性のインク

活版印刷に用いられたインクは絵画用の絵具を参考に作られ、亜麻仁油・テレピン油などを使用していた。

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