収穫感謝祭 1
ミサは毎週日曜日に行われる宗教行事だ。教会は現代日本で言うところの役所のようなものであり、冠婚葬祭などを一手に引き受けている。
本日は十月第一週の日曜日。収穫感謝祭のミサである。
――眠たい……
自宅の礼拝堂で、ディーネはひたすら我慢して椅子に座っていた。
大きなミサともなると儀式も長時間に亘る。信徒がぎゅうぎゅうにつめかける一階をすました顔で見下ろしながら、二階の特別席で座っているのがお仕事だ。
式は型どおりに進んでいる。
入祭の唱歌に始まり、憐れみの賛歌、栄光の歌と続く。きらめかしい歌に誘われて厳粛な雰囲気ができあがった群衆に向け、収穫の恵みを寿ぐ典礼文が読み上げられる。聖書は古式ゆかしき典礼言語で書かれているため本文を知っている人間は少ないが、翻訳するとありふれたお説教になる。今回はこうだ――よく働いてよく種を撒く人間は幸福になる。少ししか撒かない人間はそれだけのものを手にする。よく働きよく学べ、恵みをもたらしてくれる大いなる方に深い感謝を……
ミサの始まりは原始的な集会だった。祈りをささげてパンを分け合い、ワインを回し飲みする。ところが教会の勢力が増すにつれ、集会は荘厳な儀式と化していった。教会の内部を二つに分ける間仕切りが出現し、聖歌の歌唱によるミサ典礼が新たに加わり、司祭による聖書の読誦が行なわれるようになる。そのころにはもう、信徒は教会の内部で無言のうちに祈りをささげるのが通例となっていた。かくして聖職者たちは侵しがたい存在となったのである。
要するに退屈な儀式だということだ。
その消化試合に、今日は大勢の人がつめかけていた。礼拝堂に入りきれないほどの人だかりができていて、あぶれた人たちが屋敷の広間や中庭にたむろしている。
今回のミサはいつもと一味違う。なにせ、ミサを手掛けているのがゼフィアの大司教主なのである。
今回のために礼拝堂に持ち込まれた教会の聖具類がすさまじい。
宗教画の入ったタペストリが何枚もつり下げられ、こまごまとした細工の聖像や燭台が各地にこれでもかと配置されている。聖像に入っている服のひだや草木模様の線を数えているだけで日が暮れそうだ。
屋敷に備え付けられた小さな礼拝堂とはいえ、腐ってもここは大公爵家の催事場。内部の装飾もそれなりに凝ったものになっているが、ゼフィアの大聖堂とはさすがに格式が違いすぎた。
中央には今回のためにゼフィアから持ち込まれた聖遺物の棺や壷などが特別に展示されているが、数えるのも馬鹿らしいほどの真珠と宝石で美しく装飾されている。さらに贅沢好みの彼らの趣味で、特別にたくさんの蝋燭がついていた。蝋燭といっても庶民が普段使いしている安っぽいものではない、ほのかにはちみつの香りがするミツロウをベースに魔術的な加工をして作った教会蝋燭だ。それがうす暗い礼拝堂にびっしりと灯され、あたりにはかぐわしい香気が漂っている。
司祭たちの服もこれまた金銀宝石で埋め尽くされ、蝋燭の光を反射して目もくらむようなまぶしさだった。美しい上着には収穫感謝祭に合わせて『豊穣の象徴』である『葡萄の枝葉』がこれでもかと刺繍され、これまた本物の宝石であるアメジストやサファイアがずっしりとしたぶどうの房に見立てられて何十と縫いつけられている。貴族の娘の婚礼衣装だってここまで派手にすることがあるかどうかという手の込みようだ。
その服を身にまとっているのが美しい顔かたちで知られる若き大司教主のエストーリオ本人なのだから、おとぎ話の世界に迷い込んだかのような幻惑的光景になっていた。
きれい、というため息やささやき声。
無作法だと分かっていても抑えきれなかった庶民たちの本音が聞こえてくる。
やがて聖体拝領用の薄い煎餅のようなパンが司祭によって高々と顕示される。
ワインはこのとき用いられない。
司祭が神聖視される過程で、ワインによる聖体拝領は一般信徒に禁じられてしまったのである。
美しいものは人の思考を麻痺させる。
幻想的な儀式で惑わされた人たちがたっぷり二時間以上にわたる儀式を終えてフラフラと庭に出てみれば、そこにはすでに宴会の準備が整っていた。
この後の宴会は、どんな人でも自由に参加して席につくことができる。
農民たちも招いて、青空の下でお昼ご飯を食べるのだ。
提供されるのはパンとワイン。
ワインが大きな杯に入れられて人々の間で回される。聖体拝領用のコップはひとりひとつなどではない。回し飲みが基本である。隣の人からワインが回ってきたら両手で受け、感謝を込めてひと口含み、親指を縁にかけないよう気を付けながら片手で隣の人に回す。
毒見とパパ公爵の酌人を兼ねている執事のセバスチャンが最初に大杯を空けて空のコップを水ですすぎ、もう一度ワインを注いだ。
最上位ゲストの皇太子、大司教主に続き、パパ公爵、公爵夫人、と順番に杯が回ってくる。
「姉さま、はい!」
下の弟、イヌマエルから回ってきたコップの中身をちびりとやって驚いた。
「……またえらく上等のワインをもってきたわね」
王侯貴族が飲むような甘い白ワインはそれだけで終わらなかった。
聖体拝領が済んだら普通に食事だ。改めてディーネたちの周りを順番に使用人が回り、ワインを注いでいく。ディーネのワインはそばに控えていた侍女が注いでくれた。
今回の食事提供は例年通り教会が行なっているが、今年はいつもと違う趣向のものを、ということでディーネの側からケーキを用意していた。
背景には先日の中傷問題がある。エストーリオへの制裁として中傷ビラを配って回った結果、農民と教会の関係が一時的に悪化しているのである。関係を修繕するための策として、ぜいたく品の無料配布を行うことにしたのだ。
エストーリオとの打ち合わせ通り、今日に限ってはワインが庭に集まっている人間全員にふんだんに振る舞われることになっているが、こんなにいいワインだとは聞いていない。かかる金額にめまいがするディーネをよそに、U字型のテーブルに向かい合わせに座っているパパ公爵が調子に乗ってどんどん飲んでいるのが見える。早すぎる消費量にディーネはぞっとした。
そもそもワインは生のまま飲むものではないのだ。理由は簡単、もったいないからである。ガラス製瓶とコルク栓による保存術がきちんと発達するまで、ワインは長期保存するものではなかった。数か月もすれば酢と化してとても飲めなくなるような代物であり、たとえ貴族であっても季節外れには酸っぱいワインを我慢して飲む。それだけいいワインは貴重で値の張るものなのである。
ジークラインもパパ公爵に薦められてガンガン飲んでいる。15リットルは入ろうかという大きな壷に入った酒がどんどん減っていくのを見て、ディーネは冷や汗が出た。あいつに飲ませると際限がない。文句を言ってやろうかと思い、席を立ちかけたときにちょうど目の前にあったケーキにナイフが入った。
会場のそこかしこにある巨大なオブジェがすべてケーキなのだ。
断食の最終日に出てくるはずもないご馳走を前にして、人々は戸惑っている。
「姉さま、今日はケーキを食べてもいい日ですか?」
イヌマがきらきらした瞳で見上げてくる。
「今日のケーキはね、特別なのよ」
「トクベツですか?」
「そうなの。これはね……」