ご機嫌伺い 1
公爵令嬢のディーネは皇太子ジークラインとの婚約破棄を目指して持参金稼ぎに血道を上げている。
ジークラインは戦神の誉れ高きおのが身の上にうぬぼれてか、どうしてもというのなら婚約破棄してやってもいいと大変に笠に着た発言をしていたが、どうも内心ではかなり動揺しているらしいことがディーネの母親の話で判明した。
それを知ったディーネの胸中は複雑だ。
「……とりあえず、エスト様がうちに居候することは伝えないとマズいよねえ……」
エストーリオとは先日ひと悶着あったばかり。今後は勝手な行動を慎むようにとジークラインから説教された直後にこれだ。
「怒ってるかなぁ……嫌だなぁ……」
母親が勝手にやったんだと言うしかないが、はたして許してくれるのかどうか。
ジークラインに面会の申し入れをすると、すぐに返事が来た。早いほうがいいと思い、さっそく侍女たちに正装を着つけてもらうことにする。
「姫、なんですか、はしたない。これから好いた殿方のお部屋に行こうというときに、眉間にしわを寄せていてどうするのです。女の子はいつもにこにこ愛らしく……」
ジージョのお説教を聞き流していると、彼女はディーネの髪をクラシカルな様式にぎちぎちと編み込みながら、深いため息をついた。ディーネの服装は担当してくれる侍女によってだいぶ様変わりする。ジージョの趣味はたいていいつも、クラシカルなスタイルだった。
「おおかた、ジークライン様にまた何か怒られることをなさったんでしょう」
「へへ……正解」
「正解じゃありません。まったく……」
「なんでわかったの?」
「姫は昔からジークライン様とケンカをするとそういうお顔をなさいます」
「そ……そう?」
「あれはいつのことだったかしら? 姫が大層わがままを言って留学中のジーク様に連絡を取らせていただいて、毎日のように会いたい会いたいとおっしゃっていたことがございましたね」
「やめて。それは私の黒歴史」
「慣れない異国の宮廷でお疲れになっているジーク様から、いい加減にしてくれと言われるほどにそれはもううるさく催促をなさって」
「やーめーてー!」
ジークラインは外国でからかわれて大変だったらしい。思春期の男の子の照れだの葛藤だのが理解できないクラッセン嬢は、この世の終わりみたいな気持ちで、きっともうすぐ振られてしまうんだと思い込み、うつうつと過ごしていた。
ちなみにうつはジークラインが帰国したらその日に治った。
「ジークライン様が大切になさっていた隣国の王女さまの小袖に勝手に刺繍をお入れになったときも姫は今のように暗いお顔を」
「許して。もうそのぐらいにして」
小袖は女性から意中の男性へ贈られる品としてもっともポピュラーなものである。
騎士の試合などでも定番の贈り物だ。騎士は自分が思いを寄せる貴婦人の袖を鎧や槍などに結び付けて出場する。
クラッセン嬢は、ジークラインが婚約者である自分の与り知らぬところで女の小袖をもらってくるなんて――しかもそれを隠し持っているなんて、最低だと思っていた。
が、激怒したジークラインが語ったところによると、その王女さまは、御年五十九歳であらせられた。王女さま、というとなんとなく年若い可憐な女性を思い浮かべてしまうが、なるほど国王が健在であるならば、王女さまはいくつであっても王女さまである。
王女さまはせっかくの晴れ舞台に、クラッセン嬢に遠慮して小袖のひとつもつけていないジークラインを可哀想に思って渡してくれたのだ。こんなおばあちゃんのものでごめんなさいね、と。そしてジークラインも、彼女を尊敬する気持ちから小袖を大切にしていたのだと語っていた。
心が洗われるような美談に、クラッセン嬢は怒られながらさめざめと泣いた。
「姫は昔からジーク様のこととなると見境がなくなっておしまいですから」
ぐうの音も出ない。
「姫。女は忍耐ですよ。どんなときもぐっとこらえてにこにこ振る舞える女が結局のところは長く愛されるのです」
ジージョのお説教だけでげっそりやつれる思いだった。
***
ディーネがジークラインの部屋に飛ぶと、彼は不在だった。留守番らしき小姓が彼女を丁重にもてなして、まもなくいらっしゃるのでこちらでお待ちくださいと言う。
ディーネはそわそわと落ち着かない。どのツラ下げて会えばいいのかという思いがある。ついこないだ不用意な行動をあれほど怒られたばかりだ。
「ディーネ!」
勢いよく部屋に飛び込んできたジークラインの大声に、ディーネはビクリとした。心にやましいことがあるので、一瞬怒鳴られたと脳が錯覚したのだ。
しかし彼は感情を害している風ではなく、むしろ気が緩んだように動作のペースを落とした。そのままゆっくりと近づいてくる。
男らしく鋭い、鷹のような瞳でまっすぐに見つめられ、ディーネは早くも緊張してきた。あまり近づかないでくれと懇願してしまいそうになり、ぎゅっとスカートの端を握る。こまねずみのように早駆けする心臓は、まだ彼にベタ惚れだった頃のことをいやがおうにも思い出させた。
目を合わせるともうだめなのだ。好きだったことを思い出すから。
「早かったな。待たせた。すぐに来るとは思ってなくてよ。何かあったか?」
矢継ぎ早の問いかけに、ディーネはしばらく答えられなかった。ほんの少し声をかけられて、そばに寄られただけなのに、どうしてこんなに取り乱してしまうのだろう。
「……どうした?」
様子がおかしい彼女を案じてか、ジークラインがわざわざ膝をついて、彼女の目線の高さに合わせ、顔をのぞきこんできた。純粋に心配をしてくれている様子の彼を前にし、ディーネはちくちくと罪悪感を呼び起こされる。
これから特大の始末書をあげなければならないのだ。この心配が軽蔑に変わる瞬間を目の当たりにするのは気が重い。
「……お母さまから、お手紙が届きませんでした?」
ひとまず遠いところから探りを入れてみると、ジークラインは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「ああ、来たな。収穫祭だろう?」
「エスト様がしばらくうちにご滞在になるのだそうですわ」
ジークラインはいよいよ渋い顔をしている。しかめっ面をしていてもまあなんていい男、などと無邪気に考えている場合ではない。
「……なぜ?」
――なぜと来ましたか。
どちらかといえば饒舌で、ひとり芝居がうまい感のあるジークラインが単語を発するのは、抑えがたい苛立ちを感じているからなのだろう。本能的に危険なものを覚えたディーネは、もうなりふり構わずに喚いてしまうことにした。
「わたくしは存じませんでしたのよ! 昨日聞かされて心臓が止まる思いだったのでございます!」
ここでしくじるとあとがない。ジークラインを本気で怒らせたら強権を発動されかねないのだ。なのでディーネは一生懸命まくし立てた。いかにあいつが嫌いか。いかに迷惑に思っているか。
「でも、お父さまに先日のことが知れたら戦争になってしまうでしょう? わたくしそれだけはどうしても避けたいのでございます!」
パパ公爵は年輪を重ねた渋いダンディだが、中身はちょっぴりヤクザだった。
ディーネとしてはエストーリオとはビジネス上の関係でいたいと考えている。なんのかの言っても彼は教皇の血族で高位聖職者。パパ公爵やジークラインに匹敵する権力者だ。ことは荒立てたくない。
ジークラインはうんざりしたような顔で立ち上がって、ほら見たことかと言わんばかりにディーネを見下ろした。
「だから俺は、お前の手には負えないとあれほど……」
説教を繰り出しかけて、はたと口をつぐむ。
「……いいや。まあ、いい。とにかく、よく来たな。ああ。よく来たとも。それは褒めてやる」
引きつり笑いなどを浮かべてみせるジークライン。
ディーネはわけが分からなくて、ぽかんとした。絶対に説教が来ると思っていたので、この反応は予想外だった。




