お嬢様とゆかいな使用人たち・その二 ~錬金術師のガニメデ~
公爵家の屋敷には大小二つのキッチンが付随している。ひとつは日々の料理をすべてまかなうことのできるメインのキッチン。もうひとつは貯蔵庫や氷の貯蔵庫が併設されている小さな加工食品用のキッチン。お菓子作りや薬草づくりなどはこの小さな加工食品用のキッチンで行われることが多い。
そのミニキッチンで、公爵令嬢ディーネはいくつものお菓子の試作品を作っては投げ出していた。汚れたキッチン用品がたまり、空の牛乳の缶などが散乱している。
やがて焼き上がりの時間を知らせるタイマー音が鳴り、ディーネはかわいらしいひよこさんのミトンをはめた手で、おそるおそる焼けるオーブンから鉄板を引き抜いた。
上に載っているのは――香ばしく焼き上がったきつね色のふんわりケーキ。
この世界ではおそらく史上初の、ベーキングパウダーを使用したケーキである。
「で……できたー!!」
ついに成功したのだ。試作品を作り、失敗を重ねること九十九回。百回目の試行にして、ようやく理想のケーキが完成した。
「さあ、試食よ!」
本来ならば三十分かそれ以上は放置して粗熱を取りたいところなのだが、今は待ちきれない。
ディーネはその場で、できたてアツアツのケーキに氷雪系の魔法をかけて粗熱を冷まし、小さく切り分けた。
クラッセン嬢は水の精霊っぽい名前の通り、水や冷気に関する魔法が得意なのだった。
それを、連日の徹夜でよれよれになっている毒薬の研究員・ガニメデとふたりで分け合う。
「ああ……とてもいい香りがしますね」
「中もきっとうまく焼けてるはずなのよ……」
ディーネはぱくりと口内に放り込んだ。緻密な気泡をゆたかに含んだ軽い風合いのパウンドケーキ。今まで作っていた中世風のもっちりどっしりとしたパウンドケーキもそれはそれでよかったが、今回のは特別においしかった。なぜならそれは、世界を革命する味だからである。
「お……おいしい~~~~!」
「これは……!」
ガニメデは目をみはった。あまり表情が変わらない、ぼそぼそ喋る男なのだが、今は少し興奮しているようだ。
「なんという軽やかな口当たり……! まるで雲のかけらを食べているかのよう……! しっかりと甘い生地なのに、口解けがよくてふわふわと溶けるから食がどんどん進んでしまう……! こ、これは、うまい……!」
無我夢中でむさぼっていくガニメデ。無理もない。今までずっと失敗続きで変な小麦粉の塊ばっかり食べさせられてたもんね。ごめんよ。
「お嬢様……! あなたは天才か……!」
「きょ、恐縮です……」
そんなに褒められるとちょっと照れる。
彼は夢から覚めたみたいな顔で眼鏡をはずした。くもっているレンズを晴れやかな顔で拭きとっていく。
眼鏡をかけなおした彼は、前より心なしか男前度があがっていた。
「すばらしい発明に付き合わせていただいて、感謝いたします」
「いやあ、いいってことよ……」
「この発明は必ずや多くの人を救うでしょう」
「え、そう?」
そんな大げさなものかな、これ、とディーネは首をかしげる。
――ベーキングパウダーって、いってみればケーキがふんわりするだけの素材なんだけど。
クラッセン嬢の知識を参照する限り、この世界にはベーキングパウダーというものが存在しなかった。
ではパウンドケーキなどはどうやってふくらませていたのかというと、バターを大量に使って気泡をよく混ぜ込むか、さもなければパン種を使っていたのである。なので独特のもっちりと重たい食感があり、まずいとはいわないながらも、繊細なお菓子の風味には欠けていた。いってみればもそもそのパンに砂糖入れて甘くしただけの、甘い菓子パンのような感じだったのである。
お菓子のふくらし粉の基本は重曹。そこに重曹を反応させて気泡を生じさせる反応剤を適量まぜて作るのがベーキングパウダーだ。
そこで今回、パウンドケーキに適した配合のベーキングパウダーを作ることにより、史上初のふんわりふわふわなシフォンケーキ風のパウンドケーキが焼けたというわけだ。
配合をもう少し研究すればスポンジケーキなども焼ける。
ディーネは毒薬の研究をしていたガニメデから重曹やミョウバンの鉱石の話を聞いてこれを思いついたのだった。
これこそがディーネが思いついた一発逆転の秘策だった。
つまり、とても簡単に言うと、『軍事技術の平和利用』である。
軍需産業の研究というのは要するにその時代の科学技術の粋であるわけなので、それを少し応用すれば日常に便利な品がいくつも発明できるのである。基礎ができているのならば、あとはそれをディーネが現代日本の知識で転用してやればいいという寸法だ。
研究に惜しみない投資をしてくれていたパパ公爵に、ディーネもこのときばかりは感謝したくなった。
これならばディーネが苦労して現代日本の知識や技術を開発させなくても、比較的短期間で領地の改革が可能である。
皇太子が提示した一年という短期間で金貨を一万枚用意することだって、決して不可能ではないはず。
「お嬢様が想定している使用例以外にも応用が可能です」
「たとえば?」
「この重曹をもとに配合を変えたベーキングパウダーを使えば、パン種の発酵を待たずにパンをふっくらと焼き上げることが可能です。過酷な戦地でもおいしいパンが食べられる……これは最前線で戦う兵士たちにとってすばらしい救いになりますよ……!」
「な、なるほどー……」
戦争に興味がないディーネにはそういう発想はなかった。
戦狂いの男の人って怖い。
そんな感想を思わず持ってしまう。
「お嬢様のすばらしい着眼点には敬服いたしました」
「いやー……私は別に、大したことはしてないのよ?」
「ご謙遜を」
「謙遜じゃないって。技術力っていうのは、一朝一夕で進歩するものじゃないからね。地道な研究を続けてくれる人がいてくれてこその結果なのよ」
ざっと見せてもらったところ、公爵領のお抱え研究者が持っている科学技術はかなり高めだった。明らかに中世レベルは超えている。もしかしたら一部は産業革命期のロンドンに到達しているかもしれない。
これは転送魔法が存在する世界ゆえの発展とディーネは考えている。
技術の発見とその伝播が、地球とは比べ物にならないぐらい早いのだ。
「私は後押しをしただけ。九十九パーセントの技術はあなたが開発したものよ。だからこれは、あなたの成果だと思うわ。研究員A」
「ガニメデです」
「そうそう、そんな名前だったっけ。科学者のメガネくん」
「錬金術師です」
「錬金術師!? なにそれかっこいい。錬成陣の研究とかもやってんの?」
「しません。なんですか錬成陣って」
「あなた錬金術師のくせに錬成陣も知らないの?」
「なんだかよく分かりませんが、お嬢様が想像されてる錬金術師はたぶん俺の仕事とは違いますね」
ある程度の文化水準に到達するまでは、薬学と呪術は不可分の関係にあるのが歴史の発展の常だが、彼らもまだ半分ぐらいは呪術師の側面を持っていると考えられているのだろうか。
「錬金術師のガニメデです。覚えてくださいね。お嬢様」
「はい。すみませんでした。メガネくん」
「……まあいいですけど……今後も何か思いついたことがあったら遠慮なくお尋ねください。微力ながらお力になりたいと思います」
眼鏡の真ん中を押しながら言う研究員Aは、なぜか、ちょっとだけ格好よく見えた。