二章完結記念小話 マヨネーズを開発するお嬢様 その三
2021/04/28 卵のサルモネラ菌描写追加
まず卵は『今朝採れたものを』と注文し、新鮮なものを用意。
卵殻をきれいに拭いておいたのは、サルモネラ菌対策だ。
夏の暑い時期になると、一日でサルモネラ菌の汚染が進み、生食が難しくなる。
もともと卵のサルモネラ菌の保有率自体が1%以下と、それほど高くはなく、生食する文化もないわけではないが、念には念をというやつである。
次にたんぱく質が凝固しない六十度での湯煎を四、五分。
これで滅菌は済んだものとして、ディーネはがっしがっしと卵黄をかき混ぜはじめた。いろんな食材をかき混ぜすぎてそろそろ疲れてきたが、ここを怠るとおいしいものにならないので、握る手に力をこめる。
「油を少しずつ入れて、よーくかき混ぜます。いきなりどばっと入れてもうまくいかないので、ちょっとずつ入れます」
だんだんかたくなってきて、かき混ぜにくさマックスに。
「ぐうう! 重たい! 酢を先に入れるともっと楽に作れるけど、油を先に入れた方がおいしくなるので! 重くても耐えてください!!」
ギャラリーがざわざわしている。なんだか笑われているような気がするが気にしない。
「よく混ざったら、塩とコショウで味を調えた酢をちょっとずつ入れてゆきます。ここでも抜からず! よく! 混ぜる! すると!!」
生地がゆるんで伸び、もったりとしてくる。クリームのような形状になるのは、油と水が卵によって乳化するからであった。
ほんのり黄色のクリームの表面がつやつやと光っている。木べらを傾ければたぷんと落ちるこのソース。ディーネにとってはよく見慣れた調味料。
味の調整に塩コショウとレモンなどを加えて、完成。
「マヨネーズの! 完成! です!」
――腕が疲れた。
運動不足のディーネが若干はぁはぁしながら現物を出すと、会場は生温い拍手に包まれた。「かわいい」「かわいい」「圧倒的にかわいい」満場一致の茶化した感想にディーネは落胆する。つっこむところそこなの。もっとほかにないの。おいしそうだとか、こんな調味料見たことないとか。
労働者階級が貴族の娘に偏見を持ってるのは仕方のないことだが、そろそろディーネは違うと分かってほしい。でないとこの先もやりにくくて仕方がない。
「マヨネーズはね、野菜と相性がいいのよね。生野菜と一緒にサンドイッチにするとおいしい」
手近にあった小麦粉オンリーの白いパンにざざっとバターとマヨネーズを塗り込み、ベーコンとトマトとレタスを挟む。
「ほら。どうぞ」
料理長に手渡すと、試食係を押し付けられた彼は神妙な表情でそれを手に取った。
「……あの、これ、火を通してませんが……生で食べるのですか?」
「生です」
ちなみにこの国、野菜を生で食べる習慣はない。どんな料理もかならず一度茹でてから作られる。
「見たところ鮮度もいいようだし、私がちゃんと洗ったので大丈夫です。つべこべ言わずに食べなさい」
これにはギャラリーもざわついた。「ひでえ」「かわいい顔して」「悪魔か」それだけ野菜の生食は危ない行為だと思われているのである。もちろんそれは間違っていない。冷蔵庫のない世界では、加熱殺菌はなによりも大切だ。
彼は死を覚悟したような形相で、目をつぶり、ひと口かじった。
――カッ!
料理長の目が見開かれる。
「なっ、こっ、これは……!!」
ふた口、三口。だんだんペースがあがっている。すごい勢いでしゃっきりしたレタスを噛みちぎり、トマトのあふれる果汁をもものともせず、手をベタベタにしながら貪り尽くしていく。
「この、ベーコンの塩気とマヨネーズの酸味、トマトの味わい……ううう、うまい!」
ディーネはようやく満足してうなずいた。
BLTサンドがまずいわけがないのである。
「ねえ、ベーコンとレタスもあるだけ使っちゃっていい? 全員に試食してもらいたいから。あとでセバスチャンがなんとかしてくれると思うし」
「ああ、ぜひそうしてあげてください、お嬢様! いやーこれは、本当に、久しぶりのヒットですよ! このメニューは間違いなく流行しますね!」
ざわざわざわ。「そんなに?」「いやーお世辞では?」「料理長が言うんだし……」興味をかきたてられて騒ぐ料理人から適当に何名か指名し、サンドイッチを量産するように命令してから、ディーネはソースを煮込んでいる鍋に戻った。
「……で、こちらが完成品のヴルーテソースになります」
煮詰まってプルプルだ。本来のヴルーテソースはもっと軽やかでクリーミーなのだが、お肉に絡めることを考えて少し濃度を上げた。
「うっふっふ。今までのブイヨンと同じだと思ってはいけません。この濃厚なソースはたっぷりのスパイスに負けず劣らず肉の風味を引き立てるのです!」
どうだと言わんばかりに胸を張るディーネに、料理人たちが試食したがって近づいてきた。どこからともなく鶏もも肉のソテーが小さく切って運ばれてきて、ソースとともに配られる。
「なんだこれ……!」
「しょっぱいっつーか……いや、しょっぱくはないけど……」
「濃厚……?」
「味わい深い」
「わかんねーけどなんかうまいよーな気ーする!」
料理人たちが未知の料理に恐れおののいている。それも仕方がない。酸味と塩気、スパイスがおもな風味のこの国では、うまみとかなんかそんなのを感じ取る機会もそうそうないのである。
「うまいっす、お嬢様」
すっかり打ち解けた雰囲気の料理人が声をかけてきた。他の者たちも次々と口を揃える。
「あーこれは、焼きたてのささみとかにつけて食べたい感じの」
「スパイスなしでも結構いけるもんでしょ?」
「いいっす!」
「サンドイッチも最高です」
いつの間にかできあがっていたホワイトソースも試食に回した。
「これもいいですね。まろやかで」
「煮込み料理に向いてそう」
「うむ。くるしゅうないぞ」
ディーネは最後のソースを完成させようと、ヴルーテソースをとりわけ、トマトを放り込んで、軽く煮たてた。
トマトを食べるという習慣がない人たちは出来上がった真っ赤なソースにおののいている。
「すげえ色」
「コチニールみたいな」
「大丈夫です。トマトの赤色はリコピンの赤色。健康にとてもいいものです」
「へぇーそうなんすね」
「お嬢様のおっしゃることは全然分かりませんが」
「お嬢様が言うならそうなんだなって思います」
「やっぱ俺たちと違って学がありますもんね」
リコピンがどうたらは学があるとかないとかの問題ではなく、ただの前世知識なのだが、そこはあえて説明しないでおく。意識高い感じのヴィジョンをコンセンサスとしてメイクシュアすることにより、なんかそれっぽいなと思わせる手口だった。
詐欺師と同じである。
始めはディーネも自分の知識を現地の人にも分かるように説明しようと苦心したことがあったのだが、そのうちに謎の異世界語交じりの説明の方が納得してもらいやすいことに気づいた。要は、理解と信頼はまったく別の問題なのである。理解できても信じてもらえるとは限らず、信じてもらえているからといってその人の理解が追いつくとは限らない。調理法などは仕組みを説明して理解してもらうのではなく、こういうものなのだと信じ込ませたほうが話が早いのだった。
「うわ、これもうまいっす」
「このソースも煮込み料理向きかしらね。ハヤシライスが食べたいです」
「ハヤシ……?」
「ハヤシさんが考案したおいしい料理です。そのうちそなたらにも作ってしんぜよう」
「マジっすか!」
「よくわかんないけどうまそうっすね!」
いい感じに洗脳されてきた料理人たちに、ディーネはひそかにほくそえんだ。
あと数度も料理の実演会を繰り返せば厨房のスタッフとも仲良くなれそうだ。
「――さて、料理長。今年の秋はこの新作ソースを使った料理を考えてほしいのですが。ワインでソースを伸ばして肉を煮込んでもいいですし、シンプルなソテーに添えてもいいですし」
「お任せください。これはぜひともお館様にもお召し上がりいただかなければ」
お館様とは、つまりディーネのパパ公爵のことである。
「いいですね! まずはうちのごはんで実験してもらって」
これをきっかけに、一気にお屋敷のメニューのレパートリーが広がる予感がして、ディーネの心も躍った。
「ブイヨンもまだまだ改善の余地があります。次はぜひ魚の出汁なんかも使ってみてね」
「魚ですか……」
「そう! 魚! 海老や海藻でもいいけど、あさりから取れる出汁は最高デス! あさりの酒蒸し食べたい!! あさりのパスタ食べたい!!」
「作りましょう」
「いずれ必ず!」
キッチンスタッフとディーネたちの心は食欲によってひとつになった。
本当はかつおぶしが作れれば一番なのだが、それはおいおいの課題としようとディーネは思った。かつお自体は生息していて、海が近い地域などで油漬けの樽が出回っていることは確認済みだ。しかし、かつおぶしの作り方はさすがに知らなかったのである。
「あ……ウスターソース作るの忘れてた」
コロッケ用のソースがほしくて思いついた企画だったが、それ以前にブイヨンがまだこの世界に存在していなかったので、まずはそこからの作成となった。
当初の目的をすっかり忘れて基本のソースの作成に熱をあげてしまったが、ウスターソースはまた次回でいいだろう。
***
厨房での騒動がはけたあと。
ディーネはサンドイッチを片手に、執事のお部屋にやってきた。参加できなかったセバスチャンにも分けてあげようと思ったのである。
ドアを開けかけたセバスチャンは、やってきたのがディーネだと知るや、いきなり扉を閉めてしまった。完全なる入室拒否である。
「お、おーい? ちょっとー?」
「すみませんお嬢様、私は今あまり人前に出られるような格好ではなく……」
「どんな格好だったの……」
「いえ、決してやましいことはないのですが、先ほどお湯を使わせていただきましたので、髪が、まだ」
ちらりと姿が見えたセバスチャンはいつもの執事服だったが、確かに髪は濡れていた。
「すみません、このような格好で階段上に出てくるのは執事失格だということは重々承知しているのですが、どうしても片付けたい仕事が」
恐縮しまくっているセバスチャンに、ディーネは逆に申し訳なくなってきた。彼をこき使っているのは他でもないこの自分である。そういえば昨日も仕事を押しつけてしまった。夜も更けたこの時間まで残業させられてしかも謝らないといけないなんて、まるで奴隷か社畜のようではないか。そもそもこの世界にオーバーワークの概念はないけれども。いつの世もワリを食うのは自分から文句を言い出せない子なのだなとしみじみした。
一度セバスチャンの就業規定について考え直す必要がある。このままだとかわいそうだ。
「そう? 差し入れ持ってきただけだから、手が離せないなら渡したらすぐ帰るけど……」
ちょっとだけ開けてほしいと頼むと、おずおずとドアが開かれた。
湯上がりらしいセバスチャンはほっぺがつやつやのピンク色になっていた。恥ずかしそうに髪の毛を気にする仕草がまたかわいらしい。
「ありがとうございます」
「……? なぜお礼をおっしゃるのですか?」
「尊いものを目にしたら感謝をささげるのがマナーだからです」
――セバスチャンの湯上がり姿尊い。
ブッディストのように両手を合わせて拝んでいると、セバスチャンが戸惑った顔をしつつ、見よう見まねで手を合わせた。
「どちらの風習かは存じませんが……それでは私も、ありがとうございます」
――やだかわいい。
外国人にヘンな日本語教えてしまったみたいな感覚だ。たどたどしくて初々しい感じがたまらない。
「お嬢様はいつも私に親切にしてくださるので、とても尊いです」
「セバスチャン……!」
ディーネはキュン死にしそうになった。
この世は尊いものでいっぱいである。
思いがけずほっこり癒されて、ディーネのソースづくりは終了した。
https://www.asama-chemical.co.jp/PN/P81.PDF
食品衛生上の注意
自家製マヨネーズは取り扱いに注意しましょう
1 採れたての新鮮な卵を使い
2 低温殺菌を行い(60℃ 5-10分)
3 適切な塩分とpH濃度になるまで塩と酢を十分量添加し
4 常温保存してください
※サラダなどに使用し、濃度が薄まったら一日以内に食べきりましょう