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二章完結記念小話 マヨネーズを開発するお嬢様


 公爵令嬢のディーネは借金返済のため、また、自身の持参金を稼ぐため、身を粉にして働いている。


 季節は十月。農作業も夏の収穫を終え、冬季の種まきが忙しい時期だった。


 ディーネは次の宴会プランをどうするか考え中だった。

 宴会事業を担っている執事や公爵家お抱えの料理長を会議室に一か所に集めて、パシパシと手に握っているスタイラス兼指示棒をもてあそぶ。


「まもなくイノシシ狩りの季節です」


 気分的には議長のディーネが口火を切る。

 すると集まったキッチンスタッフがにわかに騒ぎだした。


「おい、お嬢様だぞ」

「本物だ」

「えらいかわいいな」

「お嬢様こっち向いて~!」

「はい、冷やかさないで!」


 ディーネがスタイラスをパァン! と蝋板にたたきつけると、彼らはおとなしくなった。公爵家の使用人といえども料理人は庶民階級で、その地位は決して高くなく、ふだんは仕えている館の主と顔を合わせることなどない。礼儀作法などなんのそので煽られるのも想定の範囲内だ。


 執事のセバスチャンが、彼らをいさめようとしてか、口を開きかけたが、それはディーネが身振りで押しとどめた。たかが数十人の使用人程度、軽くあしらえないようでは大公爵家の姫君など務まらないのである。


「宴会も、捕れたて新鮮なイノシシを鍋にしてくれといったような注文が増えることでしょう」


 料理長はいかにも分かっているという風にうなずいた。


「血肉がしたたるジビエにふさわしい料理を用意しております。まず……」


 ベテランの料理長によって、伝統的な調理法による献立が候補としてあげられる。


 ディーネは言われた献立内容をスタイラスで蝋板に書きとめていった。


 新鮮な肉の風味をそのまま味わうための、各種ディップ用ソース。


 その一、辛子をベースに粒コショウなどを入れたマスタード。

 その二、香草やりん茎をにんにくのすりおろしと混ぜた、シンプルな『緑のソース』。

 その三、シナモンとワインヴィネガーをベースに、クローブやショウガなどの各種スパイスを足し、火を入れずに作るカムリーヌ・ソース。

 その四、酢をベースに、固ゆで卵やピクルスで作るガーニッシュソース。


 刺激の強いスパイスやハーブのディップたちがぞくぞくと挙げられていく。


 これらとともに供されるのは、その場でさばかれ、茹であげられる予定の鳥獣肉ジビエたちだ。なぜ茹であげるのか? それはディーネも知らない。おそらく、システムキッチンのようにきちんとした火力調整ができないがゆえの調理法なのだろう。あらゆるすべての食材は、肉もなく野菜もなく、一度茹であげられてから改めて調理に回される。肉汁が落ちる? 野菜のビタミンが壊れる? 知ったことではない。


 また、その場でとれた肉はディップで食べるばかりでなく、もっときちんとした料理にも仕上げられる。


「……イノシシ肉のヴネゾン、ブイイ・ラルデ……ひとまずこんなところでしょうか」


 ヴネゾンは肉の煮汁のことで、ブイイ・ラルデは肉の脂身を赤身で巻いたものだ。


「そう、ありがとう」


 料理長が語ったこの、スパイスたっぷり、ハーブたっぷりで食べるシンプルな肉料理こそがこの国のメインディッシュであり、ごちそうなのであった。


 なぜスパイス中心の味付けなのか?

 冷蔵庫がないからである。保存がきかないので、塩漬け、酢漬け、スパイス漬けなどの各種加工技術が発達しているのだ。


 強いスパイスを混ぜ合わせて酢を加えただけのソース類は、もと日本人のディーネからすると、やはりまだまだ原始的と言わざるを得ない。


 前世の記憶が戻って以来、ディーネはずっと不思議に思っていた。

 肉や野菜をゆでてから調理する文化がどうやら確立されているようなのに、なぜその茹でた汁を捨ててしまうのだろう? と。


 西洋料理の真髄はスープストック、そしてソースなのである。


 そこでこのディーネは考える。


「今回はね、全く新しいソースを作りたいと思うのよ」


 ディーネはひとまず知っている限りのソースを説明してみることにした。


 まずはホワイトソース。

 ベシャメルソースともいう。

 クリームシチューのもととなるあの白いソースが食卓にあがるようになったのは、ルイ十四世の絶対王政期のことである。


 ホワイトソースの製法は簡単だ。小麦粉をバターでいため、じょじょに牛乳か生クリームを投入。香味野菜をお好みで入れて煮込むと完成。


「……こういうソースって、どこかで発明されていたりしないものかしら。誰か、郷土料理で似たものを知っているって人はいない?」


 ディーネが集めた料理人たちに声をかけると、彼らは一様にぽかんとした顔をした。


「スープに古くなったパンを入れてとろみをつけることはありますけどね……小麦粉っつうのは聞いたことありませんや」


 パンを入れてとろみをつける調理技法はどの料理にもよく見られる。

 どんな味がするかって? 知りたければ試しにカサカサに乾いた食パンやフランスパンをスープに入れて煮込んでみればいい。ドロドロの食感がポイントだ。


 けっしておいしいものとはいいがたい調理法だが、なぜこうまで広まっているのかはディーネも知らない。ただ、一般庶民は一日に五百グラム近いパンを食べるらしいので、食べ飽きてしまったがゆえの苦肉の策である可能性も考えられる。たとえて言うのなら、同じお米でも気分次第でおじやにしたりおにぎりにしたりするようなものだろうか。


「パンとはまた違うんだよね。バターと小麦粉でルウを作る。ここ大事」


 カレールウやシチューのルウも作り方は同じだ。バターと小麦粉を火にかけて練り合わせる。

 理屈はディーネも忘れたが、結びつくとなんか科学的にめちゃめちゃいい感じになったはずである。ディーネがそこを力説すると、彼らは浮かない顔をした。


「試してみないと、味の想像がつきませんね」

「そう……」


 料理人たちからも「またお嬢様が何か言い出したぞ」みたいな顔で見られている。ディーネはがっかりしたが、致し方ない。


「分かった。じゃああとで実演するとして、残りも説明しておくわね」


 次にヴルーテ・ソース。

 小麦粉をバターでいためるところはホワイトソースと同じだが、牛乳の代わりに肉のブイヨンを入れて作る。


 喋っている途中で、ディーネは大事なことに気がついた。そういえばこの世界におけるブイヨンは、ディーネの知っているものと少し違う。

 ここはとくに力を入れて説明しておかねばならないと思い、声をはりあげる。


「あとね、ブイヨン。あれもね、お肉にスパイスを入れるだけじゃなくて、もっと野菜とかも入れるべきなのよ。あきらめちゃダメなの。ブイヨンはもっとおいしくなる、そうやればできる子なのよ!」

「はあ……」


 一同、まったく解せないという顔つきである。

 これはいけないとディーネは思った。


 ――この世界のブイヨンは、ごく単純に、肉の煮汁のことを言う。


 ディーネが知っているブイヨンは野菜や魚などの各種素材を煮込んで濾した、いわゆる『スープストック』だったので、本当に驚いた。しかし地球史を思い返してみるとうなずけることだったので、これも文化的に発展途上であるがゆえの食い違いであると認識するに至ったのである。


 たとえばではあるが、フランス革命期に誕生した『レストラン』は料理を出すところではなく、具のないスープやポタージュを提供する『スープバー』であったらしい。


 スープは食事の献立と思われていなかったのだ。コーヒーや紅茶などと同様、いい気分になったり、健康を回復したりするためのおしゃれな嗜好品だったのである。


 ルイ十四世も朝食として『薬湯またはスープ』を採ることが多かったが、これも澄ました具のないスープが薬の一種だと考えられていたがゆえの措置である。


『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』でおなじみのマリー・アントワネットの母親、ハプスブルク家のマリア・テレジアも澄んだスープを常食していたが、こちらも料理ではなく、薬のようなものだと考えられていた。


 澄んだスープ・ストックが基本の材料として料理に活用されるようになったのは、かなり後年になってからなのだ。


 地球史でもその有様なのだから、中世前後の文化水準であるワルキューレが『素材を煮込んで出汁を取る』という発想を持っていなくても驚くにはあたらない。


「そういう料理ってどっかにないの? タマネギやお肉を一緒に煮込んで出汁にするようなの」

「田舎では、よくそんな料理を作っていますがね」


 野菜は基本的に庶民の食べ物。貴族は野菜を食べない。


 なので、宴会料理は肉料理か魚料理ばっかりなのである。宴会のコースメニューにも野菜だけのメニューや、澄ましたスープが出ることはほとんどない。まれにパンをおいしく食べるための付け合わせとしてブイヨンが出される程度だ。そのブイヨンだって、肉の煮汁でしかない。


「まあいいわ。次、トマトソースなんだけど……」


 ディーネは四種類目のソースの説明を試みる。

 ヴルーテ・ソースと作り方は一緒だが、最後にトマトピューレを入れて五分煮る。


 この説明で、どよめきが起きた。


「トマトっていうのは……?」

「ほらあの、赤い野菜よ」


 ジャガイモが普及しているワルキューレでも、まだトマトの持つうまみ成分やその活用方法は知られていないようだ。ここでもやっぱり野菜はハミ子である。


「まあ、あとで作りましょう。そして最後はアルマンド・ソース……」


 これはバターと小麦粉に卵と酢を入れて作る。

 卵の黄金色がきれいなソースだ。


「そしてあとひとつ、個人的に作りたいソースがあるのだけれど……まあ、そうね。実演したほうがいいみたいだし、いったん移動しましょう」


 そしてやってきたのは厨房である。



刺激の強いスパイスやハーブのディップたち

地域差あり。


カムリーヌソースのレシピ

十四世紀フランス版準拠。イギリスはレーズン、クルミなどを加え、酸味の強いヴェルジュは使わない。イタリアは砂糖、ブイヨン、アーモンドミルク、肉のパテなどを加え、酸味にザクロやワインを入れる。


初期のレストランはスープバー

鍋料理ポレなどの料理を提供する権利は居酒屋や惣菜屋などのギルドが握っていたので、レストランで出せるのは澄んだ具のないスープや軽食など、法の網をかいくぐるようなものに限られていた。しかし当時の居酒屋の料理は上等なものとは言い難かったので、サービスのよいレストランは大繁盛した。


venoison ヴネゾン

野獣肉のこと。中世フランス料理のルセットでは、その肉の茹で汁(ブイヨン)のほうを指す。


Bouli larde ブイイ・ラルデ

脂肪分の少ないジビエ肉などに、脂身を足して一度ゆがき、串焼きにする料理。


宴会料理は肉料理か魚料理ばっかり

中世の宴会料理で野菜やポタージュが出されることはなかった。中世フランス料理のルセットでポレ(ポタージュ)といえば鍋に入っている煮込み料理全般を指し、ヴネゾン(ブイヨン)が出される場合はパンの添え物だった。


ベシャメルソースは絶対王政期に登場

諸説あり。


■注意

作中のソース四種は近代フランス料理の基本のソース四種をもとにしていますが、レシピは微妙に異なります。


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[良い点] 解説が楽しすぎる!
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