歴史の転換点 後編
「やっぱりジークに相談したほうがいいのかなぁ……」
なかなか寝つけずに悶々としながら、ディーネは思わずひとりごちた。頭にあるのは印刷機の封印を解くことばかりだ。
考えごとをしていたせいか、ヘンな夢を見た。
幼い少女のクラッセン嬢が、まだ少年のジークラインに問う。
――ジーク様、転移魔法の極意とは、なんですか?
――イメージだ。
少年は少女のよき師範であり、よき魔術の練習相手でもあった。
――転移先に小さなブロックを構築するイメージが描けたら、半分ぐらい成功だ。隅から隅まで詳しく……精密に……完全な姿で。
――では、どうしてわたくしの転移魔法は成功しないのでしょう?
――イメージが足らない。転移先の気候、土壌、雨なのか晴れなのか、森なのか水の中なのか、日照の量、気温、魔力のうねり、できる限りくまなく探れ。水中に魔力を構築するのと、大気にブロックを構築するのとでは勝手が違う。大半の魔導師は、転移先の状態を知ることができないから転送ゲートに頼らざるを得ない。向こうから情報を送ってもらえなければ、組み立てようがないからな。
――ジーク様が転送ゲートをお使いにならないのは……
――俺は特別に選ばれた存在だからな。分かるんだよ。世界中、どんな場所のことも、手に取るようにな。
ハッとして目を覚ますと、もう朝だった。
小さな頃の記憶を垣間見て、ディーネは懐かしくなる。と同時に、ジークラインの途方もない魔法の才能に恐れを抱いた。
大気の流れをくまなくすべて観測し、予測するのは、転生前のディーネがいた世界でも不可能だった。よくて高確率で当たる天気予報がせいぜいだ。超絶演算力のスパコンを稼働させていてもそれが限界なのである。
ジークラインにはそんな途方もない不可能ごとが可能だとでもいうのだろうか。
それに『ブロックを構築するイメージ』というのも怖い。分子や原子の構造なんてろくに解明されていないはずなのに、彼は直感で把握しているのかもしれない。
転生後の記憶と照らし合わせてみると改めて恐ろしい示唆に富む思い出だった。
「……イメージ……」
ふたたびやってきた大聖堂の地下で、ディーネは改めてイメージを思い描く。
「……っていうか、もう、イメージはそこにあるのよね……」
ホログラムのように浮かびあがっているのだから、何も想像力などいらない。見えているものを魔法でなぞって記述すればいい。
ディーネは気まぐれで魔法の構成を始めた。イヴンの魔術工房を丸ごと大聖堂の地下に持ってくるようなイメージで。
通常、これだけ大きな物体の転移となると構築途中で集中力がもたなくなり構成がはかなく壊れてしまうことが多いのだが、見えているものを思い描くだけだから、ディーネの集中力でも完成までなんとかこぎつけそうだった。
それでも、あとちょっとのところで失敗した。
「……なんか、空振りを食らったわね……」
そこにあると思って手を伸ばしたら、あとちょっとのところで物をつかみそこねて落としたような感触だった。見えているものと、実際にあるものの距離がわずかにズレているような。
「……イメージ……」
強くイメージする。ここにあるのは魔術師の工房。百年間封印されていた場所。
いいや、本当にそうだろうか?
ここが百年も放置されていた場所だとするならば、当然あるべきものがないことに、ディーネはようやく気がついた。
部屋には塵ひとつなく、経年劣化した形跡もないのだ。
「……そうか。時間がズレている……?」
でも、今、見えているのが、過去の幻影なのだとしたら?
もしもこの部屋に正しく百年が経過していたら、蜘蛛の巣が垂れさがり、埃が厚く積もっていることだろう。なのにこの部屋が常に手入れされた状態を保っているのは、『過去のある地点』の映像を見せつづけているからでは? それこそ写真や動画のように。
「……待って。過去にあるものが転移で取り出せないなんて、誰が決めたの……?」
転移魔法は空間を移動する魔術。そこに時間軸の移動は介在しない。少なくとも、今までのディーネはそう思っていた。
否――そもそも、クラッセン嬢は、時間軸というものの概念を知らなかった。
新たな座標軸を付け加えて多次元空間を構築するというイメージは、数学をやったことがあり、サイエンスフィクションなどに触れたことがあるディーネにとってはごくありふれたものだが、記憶を取り戻す以前のクラッセン嬢にはそれこそ想像もつかない事柄だったろう。キューブならば、『悪魔のような発想』だと言ったかもしれない。
――この世界においては、なんでもないような概念が偉大な発明に当たることがある。ディーネは今までにも何度となくそれを経験してきた。
複式簿記。飛び杼。チョコレート。新しい馬具。折れ線グラフに円グラフ。
いずれも、からくりを知っていれば大したことではない。でも、それを最初に思いつくのが大変なのだ。
この世界には、まだ虚数の概念が存在しなかった。
ということは、三次元の立体をZ軸で表現し、さらには時間をも軸としてとらえる発想が現地の人によって自然発生的に『発明』されるのは、もっとずっと未来の話なのではないか?
現代日本の知識を持つディーネだけが、先人の知の集積によって一足飛びでたどり着けたのだとしたら、どうだろう。
そこまで気がついた瞬間――ディーネは、決して届かないと思っていたジークラインの強さの秘密に、触れられた気がした。
ディーネは改めて部屋の中を見渡した。
通常は百年前の詳細な部屋の様子など分かるはずもない。
しかしイメージするための幻影はすべてそろっている。
イメージができるのならば、空間だけでなく、時間だって超えてしまえる可能性は高い。
ディーネはいったん屋敷に戻り、大量の魔法石を運ばせた。
ひとつひとつが金貨に匹敵するような、稀少な鉱物。それを山ほど積み上げて、ディーネは転移魔法の構成を開始した。
魔術師長にもアシストしてもらい、何度も何度も失敗しながら、構成を練習していく。
何百度目かの失敗ののちに、ふとうまく行く瞬間があった。
その構成を、ディーネは、『百年前の事物を取り寄せる』イメージとして修正を加えた。
そうしてできた巨大な魔法の構成に、おびただしい量の魔法石が反応を開始。
光り輝くその石たちが、魔力を放出し終わって、ただの石ころに姿を変えていく。
――お前が、俺なしでは何にもできないってことはよく分かっただろ?
注意力を殺がれるようなよそごとを考えるのはよくないと分かっていても、ジークラインの言葉が自然と蘇ってきた。あのときのディーネは絶対に見返してやると思っていたが、はたしてそれは復讐心だったのだろうか。
――わたくしが、ジーク様なしでは何もできないなどという汚名は必ずや返上いたします。
ディーネはそれを示して、ジークラインにどうしてほしかったのだろう?
本当に婚約を破棄したかったのだろうか?
考えがまとまりそうになった瞬間、ゼフィア大聖堂の地下が震撼した。
それまで幻でしかなかった部屋のインテリアが――印刷機が、外の様子を伝えてきた窓が、マテリアルとして確かに存在しているという手ごたえ。
「成功……した……!」
魔術師長が驚きの声をあげ、興奮のあまりわれを忘れた様子でディーネの肩を叩いた。
「ああ、信じられない……! なんてことだ、お嬢様、これはとんでもない偉業ですよ……!」
魔術の歴史が変わるとしきりに喜ぶ魔術師長の声を心理的に遠く聞きながら、ディーネは今しがた転移させたばかりの印刷機に近づいて、触れた。
真新しいインクのにおいが鼻をつく。指先を汚したしみは、間違いなくまだ乾いていないインクのものだ。
その汚れを見つめながら、ディーネも、この国の歴史が動くことを予感していた。
――グラガン歴、九月の終わりのことだった。
第二章はこれにて終了します。
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三章開始までは少しお時間をいただきます。




