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醜聞の作法



 ディーネがエストーリオに手渡したビラ。

 そこに記されているのは、庶民にも理解できる各地方の方言で書かれたエストーリオの非難、誹謗、中傷だ。


 ――本来、聖職者は結婚を禁止されている。教皇の実子であるエストーリオは、庶子に当たるのだ。


 メイシュア教における庶子の扱いはかなりひどい。正式に結婚をした一夫一妻制の夫婦の子ではないというだけで、すでに差別の対象なのだ。貴族であれば継承権は持てないし、庶民であれば人から後ろ指を指されて生きることになる。


 その彼が教皇に便宜を図られて大司教主の座にいるということ自体が本来は糾弾されるべきことなのであった。ビラはその事実を巧妙について、エストーリオの職位を聖職の売買行為だと批判している。


 また、本来は個人の財産を『所有』できぬはずの聖職者が、親子ぐるみで貴族さながらに暮らしていることも非難の対象になった。


 その事実が、死亡税を課され、世襲財産を禁じられている農奴たちに強い反感を覚えさせるのだ。

 神学論を知らない彼らに、誰かが唆してやりさえすればいい。

 財産を持てないのは聖職者だって同じことだ、と。


「ねえ、エスト様。教会に対する批判が強まっている今、このビラを配って歩いたら……ゼフィアはどうなるかしら?」


 火だねを火薬庫の中に投げ込むがごとく、大爆発を起こすだろう。

 エストーリオは教主の座を追われることになる。


 なぜあいつだけがいい目を見ているのか、という、単純で根深い格差への不満。

 それがエストーリオを高位聖職者から引きずり下ろす力となるのである。


 ――要するにディーネの仕掛けた工作は、中世期の托鉢修道僧による辻説法と、近世プロテスタントのビラまき合戦とのハイブリッド戦法であった。


 ビラが読めない人間には修道僧たちが読み聞かせてやればいい。知識層が集まる都市部では、ビラそのものが充分な効果をもたらすだろう。


 ここまでやればいずれ必ず結果が出るはずだと踏んで仕掛けた長期戦だったが、思いのほか早く着火しそうだったのは僥倖だった。


 死亡税の騒動時、臨時徴収して対応しようとした教会が多かったことも幸いしたようだ。


 実際には領主が課した税であるにも関わらず、取り立てを行う教会が怨恨の矢面に立たされてしまったというわけなのである。


 ――いささかマッチポンプ気味な工作活動は、こうして結実した。


「わざわざ犯行予告をしにきてくださるとは、ずいぶん舐められたものですね」


 エストーリオは冷たい瞳でディーネを見た。


「あら、なめてなどおりませんわ。わたくし、恐喝にきたんですもの」

「脅しには屈しませんよ、フロイライン。農民の反乱がご希望なら、どうぞご随意に。あなたにそんなことができるとも思えませんが」


 痛いところをつかれ、ディーネは言葉につまる。ゼフィアの領内が荒れることはディーネとしても本意ではない。とくに無関係の農民を傷つけるのは絶対に避けたいことだった。


「エスト様には大司教主から降りていただきます」


 気を取り直してそう告げても、エストーリオはみじんも揺らがなかった。


「エスト様も慈悲深くていらっしゃるからさぞやご心配でしょうが、ご安心くださいましね、なるべく血が流れないよう迅速に挿げ替えを行いますから」

「破門がお望みですか、フロイライン? 教皇の叙任権を侵せば、父もきっと黙ってはおりませんよ」

「あら、いくさならわたくしの父もちょっとしたものですのよ、エスト様。世界最強と謳われた皇帝との連合軍――とくとご覧に入れましょうか?」


 ディーネは冷厳な印象のするエストーリオをにらみ合いながら、気合いで負けないように歯を食いしばった。


 教会にとっては数百万の徴税にかかわることだから、このままディーネが譲歩しなければ、戦争になる公算はかなり高い。


 かといって簡単にディーネが折れてしまうようでもいけないのだ。


 ――やっぱりこの方は聡明ね。


 エストーリオの受け答えは立派なものだ。先日ちらりと見せた、ダメな方のヤンデレの気配などみじんも感じさせない。


 武力を使っての殴り合いしか知らないこの世界の人たちにとっては、醜聞だけを駆使した破壊工作など想像の埒外にあったことだろう。それでもエストーリオはこのビラの重要性をいち早く見抜き、ディーネが何を仕掛けようとしているのかもきちんと理解している。


 ――聖務の能力だけを見るのなら、エスト様はかなり優秀……


 手綱をつけて制御することができれば、使える味方になってくれるはずなのだ。


「ねえ、エスト様。そう意固地にならないでくださいな。わたくしのほしいものはご存じでしょう?」


 ゼフィア大聖堂の地下に眠る活版印刷機のことだ。


「こう考えてはいかが? エスト様は心ない誹謗中傷のビラをまかれる。慌てて撤回しようにも、ビラは広く出回ってしまっていて、方法がない。そこで仕方なく禁忌の活版印刷機の封印を解く……誰にもバレないようにそっとですわ。中傷を撤回させるためにお使いになればよろしいのです」


 魔術師の作った印刷機はもともと、廉価な印刷本を高価な書写本と偽って発行する目的で作られたので、精巧にできており、素人には手書きの書物と見分けがつかないほど印字が美しい。


「いろんな用途に使えると思いませんこと? 聖書はもちろん、祈祷書、カレンダー、贖宥状……いろんな紙に使えますわ。手書きのものの数百分の一以下のコストと時間で複製が取れるのですから、得られる金貨はいかほどか……ね、これがすべてエスト様のものなんですのよ。夢のビッグチャンスだとお思いになりません? 技術的な部分に不安がおありでしたら、公爵家がサポートいたしますわ」

「興味ありませんね」


 エストーリオは冷ややかだ。生まれついてのお坊ちゃまにして聖職者の彼には、卑しい商売の話など一顧だにしないものらしい。


「……私の欲しかったものは、もう手に入りませんから」


 ――と思いきや、不穏なことをつぶやかれて、ディーネは後ずさりそうになった。


キリストは何かを所有したか?

中世スコラ神学における重要な争点。代表的なのは聖霊派とトマス・アクィナス。


フランシスコ会聖霊派

「裸のキリストには裸で従え」というスローガンを掲げ、聖職者の財産所有を批判し、教皇と対立した。


トマス・アクィナス

聖職者の財産所有は限定的に認められるとした。

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