ハリムの来歴
ハリムは解放奴隷だ。
奴隷として売られたときにこの身に刻まれた奴隷の刻印は今も黒々と肌に焼け跡を残している。焼き鏝を押しつけられたときの痛みと苦しみ、屈辱は今でも忘れられない。
奴隷の身分で黙々と働き、それなりの功績を立てて、解放奴隷となった。この忌まわしい奴隷の烙印を上書きする怪物の入れ墨は、自由の証だ。鋭い牙と爪を持つファラクという伝説上の生き物で、彼の故郷では守護獣だった。
公爵家の家令として取り立てられてからも様々なことがあった。この国の住民は解放奴隷を決して自分たちの仲間とはみなさない。彼の故郷では解放奴隷が貴族に昇りつめる例まであるが、この国においては奴隷は一生奴隷、貴族は一生貴族で、生涯まじわることはないのだという。
そんな風潮の国の大きな貴族の屋敷だから、当然、使用人の間でも差別が起きた。言葉が不慣れなハリムをからかう年若い金髪碧眼の小姓たち。背中の入れ墨を揶揄するジョーク。くだらないやり取りはすべて右から左に受け流してきた。
だから、ハリムにとってのウィンディーネお嬢様は、別世界の生き物だった。人見知りのきらいがあるお嬢様は外国人のハリムにけっしてなつこうとはしなかったし、ハリムのほうでもいないものとして扱ってきた。
生涯、私的な交流を持つことなど絶対にないと思っていた相手なのだ。
ところがつい最近、ウィンディーネお嬢様は公爵家の領地経営をやってみたいと言い出した。
ハリムは当然、疎ましく、面白くなかった。
――お貴族様の気まぐれが始まった。
そんな風に感じたのだ。
「さっそくだけど、赤字が一億って本当?」
お嬢様は意外にも博識で、こまごまとしたところまでつっこんで質問してきた。
「去年は四回も挙兵して隣国を攻めてるけど、戦果があったのは皇帝軍と共同戦線を張っていたカナミア陥落の戦争だけなのね。あとの三回は全部無駄足で、お金を無駄に浪費しただけ。うわあ……これだけで百二十万近く費用がかかってるの? バカみたい」
ハリムは少し笑ってしまった。それは主君であるバームベルク公爵に対して言いたくてもいえなかったハリムの本音でもあったのだ。
「今年は中止ね。全部中止。やった、これだけで出費が百二十万も減るじゃない。あとは? ハリム。あなたの目から見て無駄なところはある?」
ハリムは少し迷った。あまり余計なことを言うと、それがバームベルク公爵の耳に入って、彼の立場を悪くしかねない。
「この際だから隠し事はなしね。大丈夫よ、ハリムがこんなこと言ってたなんてパパに告げ口したりしないから。私は本気で領地を経営する気なの。それにはあなたの協力が必要なのよ」
ハリムはこのときはじめて、ウィンディーネお嬢様の表情をまじまじと見た。高貴な女性の顔や体をじろじろ眺めるのは失礼にあたるとして、ハリムはこれまでずっと避けてきた。
ウィンディーネお嬢様は貴族の中でも特にめずらしい淡い白金のような金髪の少女だった。それが光に反射して、きらきらとまぶしく輝いている。彫刻家が真っ白な石から削りだしたかのような麗しい頬や鼻の稜線、大きく丸い、澄んだ瞳。身じろぎをするたびに甘い香りのする肌や髪。
見てから後悔した。
すっかり失念していたのだ。この女性が、生涯交流を持つことなど許されない高貴な身分であることを。
ハリムがいくつか領地経営に関する提言をして、ウィンディーネお嬢様が査定するというやり取りが続いた。
それからウィンディーネお嬢様は奇妙な提案をした。
「うちの国は戦勝をたたえるムードでしょう? それを利用して、ひと儲けできないかと思うのよね」
彼女の企画は、要約すれば、いくさで活躍した戦車の模型を作って売る、というものだった。
そのアイデアは、失礼ながら、ハリムにはそううまくいくとは思えなかった。
しかしウィンディーネお嬢様はあっという間に役者を集め、演技指導をし、模型を作る職人を叱咤したり褒めそやしたりして三万個もの品を用意させた。
どちらかといえばおとなしい少女だと思っていたハリムは驚かされっぱなしだ。生き生きと動き回るお嬢様から、ハリムは目を離せないでいた。
そして当日。彼の予想に反して、広場のジャックは非常にうまくいった。こんなガラクタが売れるのかといぶかしんでいたハリムだったが、我先に買い求めていく人だかりを見て、感嘆するとともに、自分の中でウィンディーネお嬢様の見方が完全に変わったことも感じていた。
ありていに言えば、まぶしかったのだ。
次はいったい何を言い出すのだろう。型破りなことばかりしでかすウィンディーネお嬢様に、いつしか胸を躍らせながら接することが多くなっていた。退屈な帳簿の管理がメインの業務であるハリムにとって、それは久しくなかった感覚だった。
明日はお嬢様とどんな話ができるだろう。
ハリムは楽しみでならなかった。
「――ねえ、ハリム! 前に相談してた南の淡水湖のことなんだけど!」
ウィンディーネお嬢様の呼び声に、ハリムは心からの笑顔で応えた。
「なんなりと承りましょう。わが君」