プレゼンをするお嬢様 6
指輪の石に触れて、思考を読み取られるよりも早く構成を完成させる。
ディーネは覚悟を決めて、彼のふところに飛び込んだ。驚く彼の手首をつかみ、行動不能にしてから、指輪に触れる――触れるつもりだったのに、あと少しのところで手首を引かれ、失敗した。
「それをっ、よこしなさいっ……!」
ぞろりと長い彼のローブをダン! と踏みつけ、首に巻かれた襟巻きを力の限り引っ張り上げる。野蛮な扱いなど生まれてこの方一度も受けたことがないであろう高貴なエストーリオは怯み、女性相手に同レベルの暴力を振るう気にもなれないのか、反撃に躊躇している。
指からリングを引っこ抜き、無理やり指輪を奪い取った。何千回と使い慣れたおなじみの氷の魔法を瞬時に展開しようとしたが、僅差でエストーリオに意図を読まれてしまい、つかみかかられて押し倒される。拍子に手から指輪がこぼれ落ちた。
床にはいつくばって転がる指輪を追いかけ、先に手にしたのはエストーリオだった。不意を打たれた戸惑いから回復したのか、ディーネはかなりしっかりと床に押しつけられ、固定されてしまい、完全に身動きが取れなくなる。
「……いけませんね。いたずらが過ぎますよ」
息を荒げて、いささか不機嫌そうに言うエストーリオに、ゾクリと身の危険を感じた。しかしマウントを取られてしまってはどうにもならない。
覆いかぶさる彼の真っ直ぐな銀髪が、さらりと流れて頬に触れた。かゆいし、他人の頭髪なんて気持ち悪い。
「痛い思いをするのがお好きなんですか? お望みなら、そうしてあげてもいいですが。もう少し考えて行動されたほうが賢明ですよ。私の機嫌を損ねても、あなたが不利になるだけでしょう?」
脅しの仕方まで気持ちが悪く感じて、ディーネはそのまま気を失いそうになった。
「……人の心は、うつろいゆくものですよ。今あなたが頑なだったからといって、未来にわたってそうであるとは限らない。ご自分を大切にされることです、フロイライン」
この男は、まだディーネが自分を受け入れるとでも思っているのだろうかと、底冷えするような胸のうちで思った。ここが魔術禁止でなければ、『勘違いもいい加減にしろ』と彼の能力で直接伝えてやれたのに。
ディーネはふと、手を伸ばした。指輪を取られることを恐れてか、彼が上体を起こして逃げる。その胸に、ぴたりと手のひらを当てた。とたん、びくりと彼がすくみあがるのを見て、何かがピンと来る。
「……? 何を……」
ディーネは遠い昔の記憶を手繰り寄せる。まだ彼がクラッセン家の屋敷に招かれていた頃、遊び半分に神力の使い方を教えてもらったことがあった。ごく簡単な術式であれば、今だって使える。
それを、逆さに構成するようなイメージを思い描いた。つまり、ディーネが彼の心を読み取るのではなく、彼女の心をエストーリオに読み取らせるような構成で――
魔力の通電は、彼が手にしている指輪からスッと入ってきた。
ディーネはありったけの思念力を使って叫ぶ。簡単な構成なので、強い思念しか届かないのだ。
――あなたなんて大嫌い!
さきほどからずっとストレスが溜まっていたので、かなり強力な悪意の塊になった。
いきなり流し込まれたディーネの本音に、彼はショックを受けて固まった。
そのすきに彼の腰帯から吊るされている鍵の束をむしり取る。
エストーリオはまだ動けない。
「いけません、フロイライン――」
取り返そうとしてくる彼にもう一度先ほどの構成をかけようとすると、彼は怯えて後ずさった。やはり彼は、人に触れることを恐れている。そこから悪意を直接ぶつけられるのが怖いのだ。それが唯一心安らげる相手と勝手に認識していたディーネ相手なら尚更、受けたショックはどれほどのものか。反射的に身を引いてしまったとしても、彼を責められない。
扉に取りすがり、古い鍵から開錠を試みる。二本目、三本目で開いた。
外と隔離され、息苦しいほどだった魔術的な圧が解けて、魔力が正常に流れ込んできた。ほっとして力が抜けたディーネから、エストーリオは慌てて鍵を回収する。手が触れ合い、離れた。
――魔力の流れがあるところで、異性に触れたのだ。
「観念してくださいましね、エストーリオ様」
からくりが分からない彼は、鍵を回収できたことで安堵しているところにそう言われ、眉をひそめた。
ディーネは腕を広げて、今度は自分から彼に抱きついた。急にべったりと密着されて、エストーリオは再び身体を硬くした。魔力がある場所での接触は、彼にとっては恐怖の対象なのだとよく分かる反応だった。
ディーネには魔法の刻印があって、婚約者のジークラインとつながっている。きっとすぐにでも来てくれるはずだ。ディーネがそう考えていることも、エストーリオの能力で残らず彼に伝わっていることだろう。
ディーネから流れてくる情報にめまいがしたのか、エストーリオは急に額を押さえたかと思うと、押し殺した声をあげた。
「……フロイライン……あなたは……!」
ハッとした彼がディーネにつかみかかる。
早く来てくれるようにひたすら念じながらディーネが身体を硬くしていると、遠距離からの来訪を示す、神々しいまでに美しい魔法の構成が見えた。渦巻く雲が登り龍となったかのような、何層にも及ぶ立体構成。これほど精密で巨大な構成をたったひとりでミスなく練り上げられる男はひとりしかいない。
大聖堂がミサの時間に突入したのか、耳をすませば遠くから荘厳な宗教歌とアンジェラスの鐘が聞こえてくる。地下道の階段を震わせるその反響の中で、ジークラインはどこからともなく吹き込んできた風に髪をいい感じに乱されながら地下空間に降り立った。本来なら地下に風が吹き込むはずはないのだが、彼ほどの男の登場ともなると物理法則のほうが空気を読んでねじ曲がり、風のひとつも吹かせてしまうのである。
「ジーク様っ……!」
謎の向かい風に吹き晒されたジークラインは、鬱蒼とした髪型のすき間から鋭い視線をくれた。それだけでディーネの中に眠るクラッセン嬢としての記憶の部分が浮かれて騒ぎ出す。そう、いつだって彼はディーネが困っていれば必ず来てくれるのだと再確認し、喜びがぶわりと芽吹いた。
司教指輪
高位聖職者の装飾品。司教・枢機卿の指輪には大きな宝石がはまっている。
手袋の上からでも身に着けられるように、ゆるめに作られている。