プレゼンをするお嬢様 2
「学校を新しく建設しようと思いますの。わたくしたちだけでもやってやれないことはありませんけれど、教会の皆さまがご協力くださったなら、これほど心強いことはありませんのよ、エストーリオ様」
彼らはもともと教育機関を持っている。神学を教える大学、貴族の子女向けの修道院学校、はたまた街の庶民に読み書きを教える寺子屋と形態はさまざまだが、その人員や組織を借りられるのなら、普及にかかるコストがずっと安く済む。
「識字率――領民のうち、文字が読めるものの割合のことを言うのですけれど――わが領の識字率は、帝国語、方言、外国語問わず、すべて合わせて二割以下ですわ。でも、これを数年以内に五割にしてみせます」
「それに何の意味が……」
農民の暮らしに読み書きや計算はさほど必要とされない。彼が言いたいのはそのことなのだろう。
「文字が読めれば、法律が分かります。裏を返せば、わたくしたちが今回布告した税の督促に対して、正しく理解できた農民がどれほどいるのかということなのでございます。おそらく、ほとんどの者が布告の良しあしなどまったく理解しておりませんわ。でも、それは彼らの罪ではありません。知る機会を与えられなかったことが罪なのでございます。うばっているのはわたくしたちなのです」
教育は子どもの権利。その意識が浸透するまでには、まだ時間がかかるだろう。ひょっとしたらこの世界にはまだ必要ないのかもしれない。それでもディーネは挑戦してみたかった。
過去の日本では身分に限らず誰でも字が読めたというし、やり方次第なのではないかと思うのだ。
「畑に植えればいずれ麦が増えると分かっていても、その種を来年まで取っておけずに食べてしまうのは愚かですわ」
教会が麦穂の例えを多用するのは、パンが神の身体を表現することにちなむ。
ディーネもそれにならうことにした。
「教育とは、いずれ実る穂なのでございます、エストーリオ様。そうと分かっていて食いつぶそうとする人たちを黙って見ているのは、罪深いことなのではございませんか?」
ディーネは口を挟ませないよう、とにかく喋りつづけながら、彼の様子を注意深く観察する。
彼の表情に否定的な色はない。ただ黙って話を吟味しているように見えた。彼はまだディーネの話に興味を持っているようだ。うまく行かなかったら、そこで切り上げるつもりだったが、これなら大丈夫かもしれない。
ディーネはもうひと押ししてみることにした。
「エストーリオ様、どうかわたくしに協力してくださいまし。ゼフィアの大司教主様のお力が借りられるのであれば、わたくしが考えているよりもはるかに多くの民を導けますわ」
エストーリオは手元の用紙をもう一度眺め、それからディーネに目線をくれた。
冷たい印象の彼にそうされると心臓を刺されたような緊張に見舞われる。
「……真実の指輪にかけて、誓えますか?」
指輪を青く光らせることができれば、ディーネにかけられた異端の疑惑は晴れ、さらにハリムも助け出すことができる。しかし、失敗すれば今度は彼女が牢の中だ。
覚悟を決めて、ディーネは彼の足下にひざまずいた。
エストーリオに差し出された手の甲に、触れる。彼がかすかに身を引きつらせた。彼はいまだにひとに触れる行為が恐ろしいのだろうかと、疑問が浮かびかけたが、ディーネだって怖いと思っているのだ。構っている余裕はない。
「……あなたが今しがた私にした告白は、すべて嘘偽りのない本心であると誓えますか?」
「はい」
蛇のように温度のない手に唇を寄せ、指輪にくちづける。
――真実であれば青く光るという指輪は、確かに理知と誠実の青色を宿していた。
ほっとしたディーネがエストーリオを窺い見る。エストーリオはまだ足りないと思ったのか、眉をひそめて再度口を開いた。
「あなたは嘘をついている。あなたが金貨に子を産ませようとしているのは己が為であり、私欲によって税収を増やそうとしている。そうですね?」
「いいえ、教主様。私は――」
「回答は、はい、と。それだけ答えてください」
イエスしか回答しちゃいけないなんて、嘘発見器みたいだと思いつつ、ディーネは言われた通りにした。
――指輪が裏切りを象徴する暗緑色に染まり、やがてビシリと大きなヒビが入った。壊したのはディーネだ。彼女固有の魔術紋様が刻まれている。
エストーリオは再会してから初めて、笑顔を見せた。神聖で侵しがたい彼の雰囲気が和らぐ。
「……変わりませんね、あなたは。昔のままです。あの頃と同じ清廉な魂に触れられて、清涼な風が吹き込んできたかのようでした」
「教主様……」
エストーリオは手にしている資料をめくる。
「この図には考えさせられました。私はたしかに、あなたがたの不当な税の取り立てに怒っていたはずなのですが……この図と説明を見たら、とてもそれが不当なものではないと思えてしまって……おのれが恥ずかしくなりました」
氷のようだった彼の意外なほほえみに、ディーネは心を動かされそうになった。
「気づかせてくださったのはフロイライン、あなたです」
ディーネはコクリとのどを鳴らして、胸の前で手を組んだ。今なら、聞き入れてくれるかもしれない。期待に逸る気持ちを抑え、エストーリオに問う。
「では、ハリムを解放してくださいますか?」
「ええ。それと、私にできることがあれば、ぜひ協力させてください」
彼の助力があれば、学校制度の普及はさらに一歩前進する。ディーネは感激のあまり、両手を振りあげて快哉を叫びたい気持ちになったが、どうにかこらえた。代わりに抑えきれなかった感謝が口をつく。
「ああ、ありがとうございます、エストーリオ様! お慈悲に感謝を、あなたに神の祝福があらんことを……!」
「よしてください。どうか、昔のように、エストと」
「エスト様……」
ほほえむ彼がまぶしい。
「……あなたの家令には、地下牢に入ってもらっています。ご案内しましょう」
「はい!」
思ったよりもずっとうまく行ったことに安堵しながら、ディーネは彼のあとについていくことにした。