お嬢様と大司教主
ディーネはゼフィア大聖堂にやってきた。
巨大な石づくりの尖塔に、無数のステンドグラス。巨体を支えるための、翼のようなバットレス。タンパンにずらりと彫刻された極彩色の聖人たち。
素敵な眺めではあるが、楽しんでいる心の余裕はなかった。なにしろ今日の彼女は従者をひとりも連れていないのである。ここに来ることも誰にも知らせていない。バレたら絶対にパパ公爵に阻止されてしまうからだ。
全身をすっぽりと覆う黒いローブのフードを目深にかぶり、いかにも巡礼者のふりをして杖をつき、くたびれた荷物を肩にかけ直す。適度に泥汚れでユーズド感を出してあるので、さほど怪しまれていないようだ。
ゴシック風の大聖堂の側廊で司祭と思しき小僧を捕まえて、金貨をつかませ、エストーリオにこれを渡してくれるようにとハンカチをことづけた。ディーネが刺繍をしたもので、クラッセン家の家紋が縫いつけてある。これを見れば誰のものかは明白だ。
ほどなくして、大慌ての小僧がディーネのもとへ取って返し、教主の館のほうに通された。
室内に現れてもいまだにフードを目深にかぶったままのディーネを見て、彼の補佐らしき聖職者が厳しい声を出した。
「……娘。帽子を脱いでひざまずかんか。大司教主猊下の御前であるぞ」
「その前に、お人払いを――」
ディーネが発した声に、エストーリオがぴくりと反応した。玉座のように立派な司教の椅子から、わずかな手の動きだけで司祭たちを締め出すよう合図する。
ふたりだけになった空間に、エストーリオの凛とした静かな声が響いた。
「……あなたなのですか? フロイライン」
フードを落とし、厳重に頭部を覆っている尼僧風のヴェールを解くと、下からディーネの金髪が現れた。中途半端に引っかかっている髪を頭の振りで払い、エストーリオをしかと見据える。
「わたくしを覚えていらっしゃいますでしょうか、エストーリオ様」
「もちろんですよ……ああ、なんて懐かしいのでしょう」
思いのほか好意的な歓迎の言葉をもらい、ディーネはほっとするとともに拍子抜けした。やはりエストーリオは今も変わらず温和で紳士的な人物であるようだ。
「お願いがございます。どうかハリムを解放してくださいませ」
「それはなりません」
顔を背ける彼には固い意志が感じられた。
「ですが教主様、彼は裁かれるような罪を犯してはおりませんわ。異教徒の彼が教義違反の本を出版したとて、何の罪に当たりましょうか」
「誤った思想を流布させ――そして無垢な羊を誤った道に牧そうとしている。これが罪の形なのです、フロイライン」
「わたくしはあれが誤った思想だなどとは思いません。だってあの本は――」
あれは、ハリムの思想を書いたものではない。
ディーネの本だ。
「あの本は――なんだというのです。まさか、あれの著者があなただということもありませんよね? あれは恐ろしい思想です。間違った行為です。商人の天秤が富の目方を増やしたとしても、天使と悪魔の天秤は罪の目方を増やしていくのですよ」
ディーネはその説法を聞いていて確信した。やはりこの男は、領地代官の取り調べを通して、あれがディーネの本だと結論づけている。断定をしないのは、告解の秘密を守らねばならぬという聖職者の掟に従っているにすぎない。聖職者はみな心を読む能力を神力の訓練によって得るが、それを使ってひとの秘密を勝手に暴くのは禁じられているのである。
許されているのは、真実の指輪を使った尋問だけだ。
「それは間違いでございます。大司教主様は誤解なさってるのですわ。ハリムは富の目方を増やすことが目的であの本を流布させようと思ったのではありません」
むしろ――とディーネが続けようとしたのを、エストーリオは興奮した様子で遮った。
「フロイライン。滅多なことはおっしゃるものではありませんよ」
彼が慌てるのも無理のないことで、異端だとされているものの弁護もまた異端として厳しく禁じられているのである。ディーネがしようとしていたのは、そういうことだった。
「でも、そうですね、これではっきりしました。あなたがあの、麦穂の群れに毒麦を紛れさす、忌々しい異教徒のせいで異端に染まりかけている、ということが」
「違うんですのよ、エストーリオ様……ああ、もう、困りましたわね」
エストーリオはすっと手を差し出した。
「悔い改めなさい、フロイライン。神の御前に誓いを立てるのです。これまでの行いを悔い、断ち切ると宣言することで、あなたの罪も許されましょう。心からの悔悛でなければなりませんよ。さあ、この指輪とこの私が神の代理人です――さあ、フロイライン!」
ディーネはゆっくりと首を振る。振り乱した髪がさらりと音を立てて揺れた。
「誓いならば、のちほど身の潔白とともに立てましょう。でも――エストーリオ様。本当に、今回のことはちょっとした誤解なんですのよ」
ディーネはまず、エストーリオの説法を引用することにした。
「エストーリオ様は、あの本に書かれている行為はいけないことだとお考えなのですわよね? 罪の目方を増やす行為だと。農民からわずかな蓄えを取り上げ、わたくしたちの天国を遠ざける――」
「その通りです。これ以上罪を重ねてはなりません」
「行き違いは、そこなんですのよ、エストーリオ様。わたくしたちのやり方を知らなければ、そう思われてしまうのも仕方ありませんわね」
ディーネは神々しい聖堂内部の雰囲気や、エストーリオの厳しい追及に負けてしまわないよう、胸を張った。
「わたくしたちには最後の審判における罪の目方を減じるための用意がございます」
そして旅装にカモフラージュした手荷物から、紙の束を取り出した。
「今からご説明いたしますわ、大司教主猊下」
最後の審判
中世の人たちがもっとも恐れていた宗教概念。
人間は最後の審判によって天国行きか地獄行きかを定められる。
商売で儲けを得ることは、すなわち地獄に近づく(罪の目方が増える)行為だと考えられていた。