印刷機を作りたいお嬢様
公爵令嬢のディーネは領内の帳簿を見ていた。
「……報奨金制度もけっこう順調ね」
報奨金を餌にして、職人や商人に会計記録簿を提出させ、経営状態から足りていないものをアドバイス。そこから発生した利益の一部を還元してもらい、必要とあれば出資もする――
という、投資とコンサルティングの合いの子のような、一風変わった商売を始めてからこの方、ディーネのところに出資をしてほしいと願い出てくる人たちがぽつぽつと出てくるようになった。
「すぐに資金化するのは難しいでしょうが、長期的にはプラスですね」
家令のハリムが言い添える。褐色肌の精悍な面差しからつい、厳しい人柄を想像して身構えてしまいがちだが、非常に穏やかな物腰の人物だ。
三月末が締め切りの持参金稼ぎには使えないが、公爵家の借金を減らす上ではとても大切なことなのだった。
「あとは工場が稼働してくれれば一番なんだけどねー……」
ディーネが計画している事業の中では、それがもっとも高収益を見込めるため、一刻も早い稼働を目指している。
「その前に、なんとかして学校制度も整えておかないと……」
ディーネがつぶやくと、ハリムは不思議そうな顔をした。
「どういうことなのですか?」
「失業者対策よ。工場が稼働すれば、失業者が続出するでしょう? 生産力が余るわけだから」
ディーネが新しく建てた工場は、小さな子どもにやらせていた仕事を機械化したものだった。
梳毛・紡毛やよこ糸通しの補助などである。
これらに従事する作業員は、実に『八割以上が二十歳未満の子ども』という調査結果が出ていた。全世界的に似たような分布のようだ。
うまく軌道に乗せられれば、子どもが生産力として数えられなくても済むようになる手はずだった。
本当ならば機織り機なども欲しかったのだが、そこまで複雑な機械はまだ無理だったのである。
「で、その子たちを遊ばせておくんじゃなくて、学校に通うように仕向けたいのよね。バームベルク領内全土で一斉に学校制度開始……とはいかないけど、局所的にならすぐにでも始められるわ。予算も十分にある」
ディーネは毛織物の産業地の地図を見ながら、建設予定の学校予定地に待ち針を刺していく。地図はすぐに林立する針でいっぱいになった。
「……ざっとこのくらいね。初等学校と大人向けの職業訓練校ぐらいならすぐにでも始められるのだけれど……問題がひとつ」
ディーネはすぐそばにあった算術盤を弾いた。学校の数と、予想される生徒の数と、学科の数を掛け算していく。数字はあっという間に大きくふくれあがった。
「こんなにたくさんの本は手に入らない、ってことなのよね……」
――中世に終止符を打つ技術といえば航海用羅針盤、鉄の活字を利用した活版印刷、それに火薬だ。
ところがこの世界は最初期から魔法の技術がそれらを代用してしまっていた。人は羅針盤を用いなくても魔法で長距離を跳べるし、火薬を使わなくても魔法で爆発を起こせるし、印刷術を開発しなくても木版画などである程度本が流通しているのである。
ではなぜ本が手に入らないのか?
活版印刷の開発者が、教会に葬られてしまったからだ。
今から百年ほど前に活版印刷機を発明した人物は、教会に都合の悪い本を流通させたかどで、異端認定を受けて殺されてしまった。そのときに活版印刷の技術も失われてしまったのだそうだ。その一部の残骸は、不吉なものを封印するかのように、ゼフィア大聖堂の地下に眠っている。
それ以来、触らぬ神にたたりなしということで、誰も活版印刷の技術を再現しようとはしない。彼と同じように異端認定を受けるのが恐ろしいからだ。
現在も、本はもっぱら写本でひとつずつ生産されている。
「……とはいっても、もう主流になりつつあるのよね、木版印刷の本……」
お上の禁止も、異教徒たちには関係がない。なので外国製の廉価な木版印刷本はワルキューレの外からよく入ってくる。見つかったら異端ということで禁じられてはいるが、流通量が多くなりすぎて、教会も取り締まれていない。
「外国に依頼して大量に刷ってもらうのも手かもしれませんね」
その場合、修道院学校なんかでは教科書として使ってもらえないだろうが、公爵領が設立する学校で使う分には十分だ。
「さもなければ、なんとかして教会に活版印刷禁止をやめてもらうか、よね……」
正式に公会議などで活版印刷の異端認定を取り消してもらえれば、本の普及率もあがって、識字率も向上。みんなが幸せになれるはずだった。
「教会のお偉いさんとコネが作れれば一番なのだけれど……」
しかし、ディーネにはあてにできそうな人物に心当たりがなかった。
「木版刷りの本といえば、お嬢様。先日行っていただいた会計学の講座の本が刷りあがりました。ひとまず領地代官たちが使う分ということで、百部用意しております」
「うそやだ、見たい見たい。どこ?」
ディーネは用意された本の美しい体裁を見て、驚いた。立派な仔牛皮紙に細密画の表紙イラスト、ぴかぴかの金属枠で補強された角。書斎に飾っておけるような、立派な本だ。
「すごいわ。お高い写本みたいね。中身は印刷ものなのに」
「せっかくなので、装丁にこだわってみました」
同人誌みたいだと思ったことは、胸のうちにしまっておいた。
***
ミナリール商会のカフェでは、ちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。
「ちょっと! いつもの美人さんカップルが!」
「なに、どうしたの?」
「カップルさんがカップルじゃなくなってる!」
女給たちが遠巻きに眺めているのは、三人の男女だった。儚げなブロンドの美少女と、銀髪の中性的な美青年と、屈強そうな美男子。いつも来る金髪の少女と銀髪の青年が仲よさげに寄り添っているので、スタッフからは名物カップルと目されていた。
「あの大きな男の人、誰?」
「お兄さん……って感じでもないよね」
新しく加わった男は、外国人風の風貌をしている。
女給たちには三人がどういう関係なのか、まるで読めない。
女給たちが見守る中で、紅一点の少女が何やら眉間のしわを伸ばしている。彼女を見つめる浅黒い肌の男の視線は温かい。
「でも、たぶん……」
「うん……」
「あの人も、真ん中の子のこと好きだよね……」
女給たちはうらやましいような、モヤモヤするような、なんともいえない気持ちでその光景を見物していた。
やがて少女と青年は、真剣な顔をして何かを話し合い始めた。
銀髪の青年はそれを静かに見守っている。
話についていけない青年を、大きいほうの男がふと見た。どことなく優越感のようなものを漂わせている彼に対し、青年はにこりと邪気のない笑みを返す。
「……修羅場?」
「ではなさそうだけど……」
「どういう関係なのかなあ……」
女給たちの謎は深まるばかりだった。




