スコラ的数学論とお嬢様
公爵令嬢のディーネは借金の返済を目指している。たまの休みに家令と執事を伴いカフェに出かけてみれば、日頃の疲れも癒されるというもので、ディーネは張りつめていたものが切れて、つい弱音を吐きたくなった。
「……神の愛って、なんなのかしら……」
昨日もさんざん数学者の男に神学と数学の関係について叩き込まれたのだが、しかしディーネには悲しいかな、十回説明されても十回ともさっぱり理解できなかったのである。
彼が主張するところによると、虚数や複素数が存在すると仮定した場合に成立する空間は、神学において『完全なる存在』がどこかにいると仮定した場合に成立する唯一神の……ディーネは頭痛に耐えられなくなり、しおしおとテーブルの上に崩れた。
十回も説明されたので冒頭の部分は暗記してしまったが、内容は本当に意味不明だった。
その様子を見ていたセバスチャンが、ほのぼのとした口調で言う。
「それは難しい問題でございますね」
「ほんとよね……あんな難しいことばっかり四六時中考えてるからキューブの眉間のしわが取れないんだと思うわ……途中で何度指で伸ばしてやろうかと思ったかしれないわよ……」
「お嬢様も眉間にしわが寄っていますよ」
ハリムが苦笑するので、ディーネは自分の眉間をそっと人差し指で伸ばした。
いつもならセバスチャンと言語崩壊したやり取りをしているうちに時間が過ぎるのだが、この日はハリムがいるので自然と仕事の話になった。
「それにしても、工場の人たちへの出資が成功したのはよかったよね」
「お嬢様のなさることはどれもすばらしいですが、あれは出色でしたね」
ハリムの同意を得て、ディーネは少しだけ気分がよくなった。
「ああいうのをもっとしたいなあ……技術とアイデアはあるけど資金が足りないって人に提供して、その分の売上の何割かをもらうってことなんだけど」
資金はすぐに返ってこなくても問題ない。中期的、長期的にペイできればそれでいい。
「せっかく七百万も追徴で入ってくるめどが立ってて、現金もいくらかあるのに、それを眠らせておくのはもったいないのよね……」
寝かせておいても現金は増えないが、投資しておけば少しずつでも利益が入る。
短期的に一気にどーんと持参金を稼ぎたいディーネにはあまりメリットがないが、公爵領の借金を返済していく上では大事な戦略だった。
「……しかし、そうなると、教会の思想に反するのでは?」
「そうなのよねえ……」
ワルキューレの国教であるメイシュア教。そのメイシュア教が、利子を取り立てたり、何かに投資をして、帳簿の数字を動かすだけで利益を生む行為を禁止しているのである。
多少なら神学的な屁理屈をこねてメイシュア教の目をごまかすこともできるが、世界に名だたる大公爵家が大々的に教義違反のことをして、しかもそれで大儲けをしようと企んでいるとなると、ちょっと厄介なのは事実だった。
「……帳簿を動かすだけで『お金が子を産む』のがだめなのよね? じゃあ、違う名目でお金をもらうってことにしたらいいんじゃないかしら。サービス料とか、リスクに対するペイだとか、そういうのよ。よく街の高利貸しが契約書に書いてる感じのやつ……そうね、具体的に言うと……」
ディーネはおぼろげな前世の知識を引っ張り出しながら言う。
「コンサルティングってやつ?」
会計学の、もうひとつの側面を利用するのだ。
***
ハンスは小間物の行商人だ。
驢馬を二頭飼っていて、小さな村と大きな街を行き来している。大きな街から買いつけてきた釘や鋤といった日用品を村まで運び、村の農作物を街に持っていって販売している。
――今年は小麦が少し多く売れたかな。
日記帳を読み返しながら、そんなことを思う。ささやかながらに増えた収入で、街で揚げ菓子を買うのが最近の楽しみだった。近頃の揚げ菓子には珍しいものが多く、こないだ食べたドーナツはまるで綿のようにふわふわとしていた。
――あれはおいしかった。ぜひとも村の皆さんにも食べてもらいたい。
その一心で、揚げドーナツ屋に聞いたところによると、最近できた新しいパン種がおいしさの秘密なのだという。
誰にでも買いつけられるという話を聞いて、ハンスがその魔法の粉を買い取り、村の菓子職人のところに持ってゆくつもりで出発したときに悲劇が起きた。
粉が雨にやられてしまったのだ。
水に濡れた粉は使い物にならないらしく、残った粉で、揚げドーナツはうまくふくらまなかった。
投資のあてが外れて、ハンスのささやかな黒字収入は飛んでしまった。生活に必要な資金は取ってあるが、これでは次回の買い食いはお預けかなと、ごく小さな不幸を嘆いてみたりした。
そんなときに見つけたのが、公爵様からの布告だった。
「以下の条件に合致する者に、公爵様の恩寵において、報奨金を与える」
ひとつはきちんとした商業組合に加入している人物であること。
ひとつは自分が行った商品の生産活動や売却の記録などを一年にわたってすべて書き残していること。
ひとつはその記録に嘘がないと確認できること。
要するに、帳簿をつけている人間は、その記録を公爵様に提出すると、報奨金をもらえるということらしかった。
ハンスは自分の日記帳を思い返した。記録ならば一年どころか、商売人を始めてから今までずっとつけている。
これを見せるだけで報奨金がもらえるとは、いったいどういうことなのだろう。
「……罠、でしょうなあ」
布告の前に集まっているうちのひとりが、ぼそりと言った。隣にいた商人らしき風体の男が応じる。
「……いったいどういうことなんです?」
「つまり、お上は税金の取り立てがしたいんでしょう。帳簿の記録を提出しちまったが最後、あれもこれもと詮索されて、税金逃れを全部暴かれちまうって寸法でさぁ」
「なるほど……」
「そういや最近も税が上がったばかりでしたね……」
「報奨金で釣るなんて、なかなかどうして、よく考えてますな」
口々に言い合う商人たちから離れて、ハンスは自分のねぐらで、日記帳をよくよく読み返してみた。
税を滞納したことはない。ただの一度も。逃れようと思ったこともない。そういうことをする商人は天国に行けなくなってしまう。
しかし、ハンスが気づいていないところで、税金の支払いを忘れているとしたら、どうだろう。知らず知らずのうちに、天国への道を閉ざしていることになる。
何度もよくよく読み返してみたが、ハンスには分からなかった。
自分には分からないというのであれば、公爵様に提出して、きちんと見てもらうのもひとつの手なのではないか。
ハンスが報奨金の申請を決めた経緯は、ちょうどこんなところだった。
虚数
目に見えないが、あると仮定すると便利な数字。
神学において『完全なる存在』がどこかにいると仮定
神学者のトマス・アクィナスは、著書「神学大全」の中で、人間の認知は有限なので完全性を持った神の存在を感じることはできないが、理性で推測することはできる。「五つの道」と呼ばれる神の存在論証から想定される「完璧なもの」を、「われわれが神と呼んでいる」のだとした。




