ハリムの休日
バームベルク公爵家の家令ハリムは、領地の執政全般を公爵から任されている。
激務といえばそうだが、もと解放奴隷であるためか、待遇に不満を持ったことはない。奴隷時代と違い、物の所有が許され、所持金もずいぶんと増えた。
現在は本来の主君である公爵に代わり、ウィンディーネお嬢様が執務の指揮を執っていることもあり、例年よりも仕事量が多くなっていた。
しかし。
そのウィンディーネお嬢様が、なにやら満面の笑みでハリムに近寄ってきたかと思えば、「話がある」と言うではないか。
またなにか新しいことを始めたいと言うのだろうと思ったハリムは、何気なく聞き返して、固まることになった。
「今日までよく働いてくれたわね」
まるで解雇の前触れのような口調。
ぎょっとするハリムに、お嬢様は気づいていない様子だ。
「代官たちの教育も一通り終わったし、私も執務に慣れてきたから、ハリムにはここらへんで休暇を取ってもらおうと思うの。ずっと忙しかったでしょ? だから、そうね、一週間くらいの夏休みを……」
「一週間……だけ、ですか?」
思わず尋ね返すと、ウィンディーネお嬢様は面食らった。
「……足りないかしら? でも、ハリムにそれ以上抜けられると、ものすごく困るのよね……あなたの代わりはそうそう見つからないし……私もひとりで見られる量には限界が……」
どうやらお嬢様は解雇が目的で話を切り出したわけではないらしい。ほっとすると同時に、自分がどれだけこの環境を楽しく感じていたのかも思い知った。
彼女から与えられる課題は刺激に満ちており、ときには無謀と思えるようなこともあったが、彼女は巫女のような預言能力を持っていて、どんなに突拍子もない計画であっても不思議と成功させてしまう。このごろはハリムも難題をスルスルと解いていく快感に近いものを執務に対して感じるようになっていた。
「いえ、不満なのではありません。失礼しました。ただ、解雇かと不安になったものですから」
「紛らわしかったかしら? 私としてはむしろよくやってくれたご褒美って感じなんだけど……休暇じゃなくてお金にする?」
「そのお気持ちだけでもありがたいと思います。しかし、まだ片付けなければならないことも多いので、休んでいる暇がありません」
ハリムの座っている机の前には大小さまざまな帳簿が広げられ、各地から届く書簡で手の置き場もないほど散らかっている。すべてを整理するころには夜更けになっているだろう。これらの采配ができるのは、彼だけだ。他の誰にも任せられないと、ひそかに誇りを感じていた。
「大丈夫! ハリムが休んでいる間は私が見るから! それよりハリムは少し休んだほうがいいって!」
力強く薦められてしまい、ハリムは考え直してしまう。彼女の申し出は親切心から出たものなのかもしれないが、ハリムには喜べない理由があった。
「しかし、私は……休暇をいただいても、することがありませんからね」
「じゃあ、旅行にでも行ってきたら? 今の時期ならどこも収穫をしているから、田園風景が見物よ。もうすぐ収穫祭もあるわね」
秋に起きる世界各地のイベントを指折り数えあげるお嬢様に、ハリムはなんと返事をしたらよいものか考え込んでしまった。ハリムにとっての収穫祭とは、年に二度の賃金を使用人に対して払う日であり、賦役や租税の支払いを受け取る日でもあった。その日に向けて数限りない準備に追われるのが毎年の恒例だったのだ。
仕事はけして嫌いではない。忙殺されるのも苦痛だと感じたことはなかった。むしろ、これらの作業を取り上げられてしまうことに強い不快感を覚えるほどには愛着を持っていたし、何よりも――
「収穫祭の采配など。お嬢様にそのようなことはさせられません。どうかお気遣いなく。私はこの仕事を楽しくさせていただいているんですよ。お嬢様がいらしてからは、とくに、創意工夫をこらして課題に取り組むのがいい刺激になっているんです」
「でも……」
「旅行よりも、こうしているほうに魅力を感じるくらいですから、本当にお気になさらず」
「むー……」
お嬢様は愛らしい口をとがらせて、不満を訴える作戦に出た。いくぶんか子どもっぽい気もしないでもないが、そういう顔をされてしまうと、一日くらいは休暇を取ってあげたほうがいいのだろうかという気がしてくる。
「……本当に、私にはすることがないんですよ」
「ゴロゴロするとかは? それで、ゆっくり散歩して、また戻って一日寝て暮らすの。私はそういうのも好きだけど、ハリムは……」
「性に合いませんね」
「じゃあじゃあ、セバスチャンはカフェ巡りが好きって言ってたけど、ハリムは……?」
お嬢様の発言で、若い執事のことを、かすかな苦い気持ちとともに思い出す。彼はお嬢様にどう取り入ったものか、ときどき休暇の外出にお嬢様を付き合わせているらしい。最近はミナリール商会のカフェが気に入っているらしく、ハリムが所用で店舗に出向いたときにも、ふたりの姿が見られた。
店員たちは変装中のふたりが店の関係者であるとは知らないらしく、ひそひそとやくたいもないうわさをしていた。
――あのふたり、また来てる。
――夏ごろからよく来るようになったよね。
――ふたりともかわいい。すごくお似合い。
なるほどお嬢様はこの国の貴族らしく、色素の薄い白い肌と金髪、透き通った青い瞳をしている。セバスチャンも雪国の人間に特徴的な銀髪で、背丈も並んで立つとちょうどいいぐらいだ。事情を知らない人たちからすれば、つり合いの取れたカップルに見えることだろう。
――男の子のほうがさ、もう、目が言ってるよね。好きだー、かわいいー、って。
――見つめ合ったりして、すごくラブラブだよね。
害のないうわさに不快感を覚えた理由は、ハリムも知らない。
ただ、雇用主と親しくしすぎるセバスチャンのルール違反が不快なのだろう、と思う。
「……カフェも嫌い、かな」
いつの間にか眉根を寄せて険悪な表情になっていたハリムをそっとうかがい、お嬢様が肩を落とす。
「いえ。ただ、ああいったところは、ひとりで行くものでもないかと」
「え、そんなことないと思うけどなあ。カフェでずーっと暇をつぶしてる人、けっこう見かけるけど……」
ハリムはおのれの浅黒い手に目をやった。お嬢様とは肌の色が違う、生まれ育った環境が違う、身分が違う。こうして親しく話をしていただけるだけでも感謝しなければならないほどの決定的な差があった。いくらハリムが変装をしても、お嬢様とふたりで連れ添って、お似合いだとうわさされることは絶対にないだろう。
ウィンディーネお嬢様は、皇太子殿下との婚約解消を狙っているのだという。春から資金稼ぎに精を出しているのは、婚約解消後、彼女が自力で好きな男性に嫁ぐための持参金が目的なのだそうだ。
今のところは誰が相手というわけでもないとお嬢様は言っていたが、その相手が自分になる可能性も、おそらくはないのだろう。そのこと自体は簡単にあきらめがついても、いざお嬢様がハリムもよく知る人物と親しくしているとなると、落ち着いていられなくなってしまう。
「あ。分かった。誰かと一緒のほうがいい? それなら……」
ハリムは信じられない思いだった。まさか、お嬢様が付き合ってくれるとでもいうのだろうか。期待しかけた刹那、
「三人で行く?」
思いもよらないようなこと言われて、ハリムは今度こそ返答に困った。
「セバスチャンも、人数多いほうがきっと楽しいと思うの」
お嬢様は本気でそう思っているらしかった。
「……お嬢様は、セバスチャンのことを、どのように思われているのですか?」
思わず、失礼なことを尋ねてしまう。
「どうって? お茶飲み友達?」
それから何か思い出したのか、「そうよ。私にだって友達ぐらいいるわよ。あのメガネめ」とブツブツつぶやいた。何のことかはハリムには分からない。
「で、あわよくばあなたもお茶飲み友達にしようかなと思ってるところだけど」
平然と答えるお嬢様に、なぜかハリムは笑いがこみあげてきた。どうもお嬢様はセバスチャンに何の感情も抱いていないらしい。
それもそうか、とハリムは考え直した。戦神と呼ばれたかの皇太子殿下すらも振ってしまおうという方だ。一筋縄でいかないのも当然のこと。
「……なんで笑うの? なんかおかしい?」
「ああ、いえ。では、お言葉に甘えて、ご一緒しましょう」
「本当? やたっ」
思いがけず楽しい休暇の約束を取りつけられて、ハリムは爽快な気分を味わっていた。
何よりも、セバスチャンとはなんの関係もないと分かったことが収穫だった。
このいい気分のうちに仕事を片付けてしまおうと、ハリムは頭の中でスケジュールを組み立てていった。




