公爵令嬢は思い出した
その日、バームベルク公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンは思い出した。
前世が日本人だったこと、ここが地球のどこでもない異世界であること、そしてクラッセン嬢が皇太子との婚約を間近に控えた皇妃候補であることなどが一度に脳裏をよぎり、最後にとんでもない事実をおののきとともに受け止める。
公爵令嬢ディーネは思い出したのだ。
――婚約者たる皇太子が、前世の彼女からするとありえないキモ男であることを。
グラガン歴七百二十九年、アディディウス帝朝ワルキューレ帝国、第四代目皇帝ヨーガフ即位より三十年目の春だった。
帝国ワルキューレは軍事大国であり、様々な形質の国土を広く領有しているが一貫して特にジャガイモをよく産出し、領土内には戦争の要となる魔法の鉱石の鉱脈が大量に眠っている。その圧倒的な国力に周辺諸国は厳戒態勢を取るか属国化するかの二択を迫られ、屈した国、いくさに負けた国は次々と併呑されているのが現状だった。皇帝ヨーガフはすでに四つの国を有している。王家の紋章はそれを誇示するかのように四重冠のエンブレムに改められたばかりだ。
さてその四つの国の支配者を意味する『四重冠』の紋章を背負いし大帝国の皇太子――名を、ジークライン・レオンハルト・フォン・アディディウスと言った。
「ジークラインさまとの婚約を破棄したい、ですって……!?」
側仕えの筆頭侍女であるジージョはくらりとよろめいた。ジージョはかくしゃくとした老婦人だ。白髪交じりの髪をきっちりと結い上げ、服装に乱れのひとつもなく、足元がおぼつかなくなるほどもうろくするにはまだあと二十年早そうだ。おそらくわざとよろめいてみせたのだろう。
公爵令嬢はそれに対し、ごくあっさりと首肯した。
「します。超します」
「姫! 超などと下品な言葉を使ってはなりません! だいたいにして姫、昨日までは皇太子さまだいしゅきだったじゃありませんか!」
「だだだ、だいしゅきって言うな!」
「わたくしが何度諌めてもまるで耳を貸さずに周囲がドン引きするほどそりゃあもう重いラブポエムを書き送ったりしていらしたでしょう!」
「ラブポエムって言うなー!」
ディーネは頭をかきむしった。彼女の指摘はだいたい事実だったからである。記憶が戻った今ではもはや、虫唾が走るとしか言いようがない。
公爵令嬢ディーネには常に四人の侍女が側に侍っている。それぞれがみな高い身分で、申し分のない品格の淑女たちである。侍女たちは互いに顔を見合わせているが、そこには突然おかしなことを言い始めた主人に対する心配と、少しの好奇心が見え隠れしていた。
どうやら誰もディーネが本気で婚約破棄を望んでいるとは思っていないらしい。
ディーネは覚悟のほどを理解してもらうため、ふかぶかと頭をさげた。公爵令嬢らしく、作法は完璧だ。
「どうかしてました。ごめんなさい。私には無理です。あいつと結婚するぐらいなら死にます」
「死ぬとまで」
「そんな、口調まで変わって」
「神々しいばかりに理知的なディーネ様が、そんな軽薄な口調で」
「ディーネ様、何か悪いものでも召し上がったのですか?」
侍女たちの総突っ込みに、ディーネはもう泣くしかなかった。
「無理です、いやです、あんなキモ男まじで無理です」
「ジークラインさまの何がお気に召しませんの?」
侍女のひとりが不思議そうに言う。眼鏡美人の彼女はナリキ・ミナリール。身分は低いが豪商の父親を持ち、彼女自身も相当なやり手である。
「とても素敵な方ではありませんか」
「そうですわそうですわ。ジークライン様と結婚できるなんてお幸せですわっ」
「あんなに格好よくて優しくて頼りになる方、他にいらっしゃいません」
「何をなさっても様になるのですわよね! きゃあ!」
ディーネはげんなりしながら答える。
「……そうでもないと思う……」
「なんですって!?」
筆頭侍女のジージョは眉を逆立てると、こんこんと説教を始めた。
「よいですか、ジークライン様は人並み外れて容色優れた方でいらっしゃいますが、ジークライン様の魅力はそれだけにとどまりませんのよ。徳に篤く叡知に溢れ、その武力で国をふたつまでも平らげられたのですからね」
現在四か国にまたぐ帝国を築いているワルキューレだが、そのうちの二か国を攻め滅ぼしたのは皇太子のジークラインである。彼はワルキューレの英雄でもあった。
「なんといっても有名なのはカナミア国との戦争の『重騎兵の奇跡』のエピソードですわっ」
ジークラインはその戦いで奇襲を受けた。十倍もの敵兵が一斉に転移魔法で彼の率いる重騎兵旅団を取り囲んだのである。
転移魔法。読んで字のごとく、対象の事物を地点AからBへ一瞬で移動させる魔法である。アインシュタインなんていなかったんや。
転移魔法は非常に高度な魔法で、その利用には莫大な魔法エネルギーを必要とする。生身の人間の魔力だけでは購えないので、魔力のこもった鉱石を使って補うことが多い。高価な魔法石を大量に使って五万からの将兵を転移させたのだから、カナミアはそこで雌雄を決するつもりだったのだろう。
敵方の、奇襲の方策は完璧だった。絶対に打ち破れないサドンアタック。
しかしジークラインはそのいくさに、勝ってしまったのである。
――敵兵に奇襲・包囲されているという連絡を受けたとき、ジークラインは自分の幕舎で酒宴を開いていた。絶望的な状況にも一切慌てることなく、こう言ったという。
「やれやれ、気づいちまったか。転移魔法の重要性に」
出来の悪い生徒に及第点を与えると言わんばかりである。
「やっと時代が俺に追いついてきたな。いいぜ、その戦法は俺が七歳の頃に考案済みだ」
そして彼は素晴らしく美しい声を響かせて、全軍に号令を下した。
「――来な! 敵兵五万の屍、踏ませてやる」
そして彼は本当に勝利した。敵兵五万のうち、半数近くが戦死するという史上でも類を見ないほどの大勝利だったという。なお、肝心の戦法についてはかん口令が敷かれているため、知らされていない。どうやら転移魔法の抜け穴を利用した大どんでん返しがあったらしいとだけ伝わっている。
逸話を臨場感たっぷりに語り終えた侍女を取り囲み、四人の侍女たちは熱いため息をもらした。
「かっこいいですわあ……」
「素敵ですわぁ……」
「まさに英雄の中の英雄でいらっしゃいますわぁ……」
「男の中の男とはああいう方のことを指すんですのね……」
「いやいやいや、かっこいいかな? 今の本当にかっこいい? ねえかっこいいの?」
前世の記憶が戻ったディーネだから分かる。
――ひと、それを厨二病という。
厨ニ病とは公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンの前世である日本の、ある一時代に流行したスラングだ。
中学校二年生ぐらいの少年少女が憧れるような、おしゃれでむずかしい語彙の言葉を並べ立てたり、万能感に由来する自信過剰な言動などをしてしまったりする心の病のことを言う。
もっと早く言うと彼女の婚約者、皇太子ジークラインの言動がそれに当たる。
「だいたいなんなの『七歳のときに考案済みだ』って! どこに向かっての自己主張なの!? 何で権利主張してんの!? 特許でも取りたいの!?」
「かっこいいです」
「自信に満ちあふれた殿下らしいお言葉ですわ」
だめだー! この世界に厨ニ病の概念がないー!
ディーネは絶望のあまりがっくりと肩を落とした。記憶が戻った時点でこうなることはうすうす分かっていた。しかしなんというかあまりにも辛い現実である。
「とにかく私は無理! あんなキモ男とは結婚できないから! お父さんにもそう言ってくる!!」
「あっ、ディーネ様!?」
ディーネはドレス姿で駆けだした。鯨骨でできたスカートをふくらませる補正器具が邪魔だったが、慣れれば意外と走れるものだ。