最終話「朝の渡し場」
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ナギが戻ってきたのは、七日後だった。
今度は一人ではなかった。
しかし兵を百人連れてきたわけでもなかった。
十人の兵と、一人の老人が、ナギの後ろにいた。
老人は人間だった。白髪で、背筋が真っ直ぐだった。目が澄んでいた。
「誰ですか」とミナは老人に聞いた。
「この地方の年寄りだ」と老人は言った。「ナギ将軍に頼まれて来た。話をするために」
「何の話ですか」
「境界のことだ」と老人は言った。「川のこちら側に、長く住んでいる。向こう岸の鬼と、長く付き合いがある。そういう者が話す方がいい、とナギ将軍が言った」
ミナはナギを見た。
ナギは静かに立っていた。
前回来た時とは、何かが違った。鎧を着けていたが、構えが違った。剣を抜こうとしている構えではなかった。
「座って話をしましょう」とミナは言った。
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小屋に入りきらなかったので、川沿いに座った。
ナギと老人と、ミナとハルが向かい合った。兵は少し離れて待った。
「俺が誤っていたかもしれない」とナギは言った。最初に。
「何が」とミナは言った。
「全ての鬼を討伐することが、正しいと思っていた。しかし——」ナギは川を見た。「この老人に会って、話を聞いた。向こう岸の鬼と、長年取引してきた話を。薬を分けてもらったことも、食料を融通したことも。鬼が人間の味方をしたこともある、と聞いた」
「そういうことは、あります」とミナは言った。
「分かっていたはずだったが、見えていなかった」とナギは言った。「俺の村を焼いた鬼のことを思うと、それ以外が見えなくなっていた」
「今は見えていますか」とミナは言った。
「今は、少し見える」とナギは言った。「渡し場の真ん中から見た景色を、ずっと考えていた。こちら岸と向こう岸が、同じに見えた。そのことを、考え続けていた」
老人が口を開いた。「将軍は、討伐令を変えることを考えておられる」
「変える?」とハルは言った。
「全ての鬼を討伐することをやめる」とナギは言った。「ただし——人間に害をなした鬼については、追う」
「それは」とミナは言った。「人間に害をなした者と、そうでない者を、区別するということですか」
「そうしようと思っている」とナギは言った。「難しいことは分かっている。どこで線を引くかは、まだ決まっていない。しかし、全てを同じにすることは、俺にはもうできない」
ミナはナギを見た。
ナギの目が、変わっていた。
冷たさの下にあった何かが、表に出てきていた。
悲しみだった。
怒りではなく、悲しみが。
「将軍」とミナは言った。
「何だ」
「村を焼いた鬼を、探しますか」
「探す」とナギは言った。「しかし、見つかったとして——どうするかは、まだ決めていない」
「決めていなくていいと思います」とミナは言った。「見つけた時に、決めれば」
「そういうものか」
「そういうものだと思います」とミナは言った。「今決めることと、その時に決めることは、別のことだから」
ナギは川を見た。
「渡し場を、続けろ」とナギは言った。「討伐令は取り下げる。渡し場を封鎖することも、しない」
「ありがとうございます」とミナは言った。
「礼はいらない」とナギは言った。「俺が変えたのではない。考えさせられただけだ」
「考えさせられることが、始まりだと思います」とハルは言った。
ナギはハルを見た。
「半鬼の言葉は、重い」と言った。
「どちら側からも聞いてきたので」とハルは言った。
「そうか」とナギは言った。「羨ましい」
「羨ましい?」
「どちらも知っている、ということが」とナギは言った。「俺は、こちら側しか知らなかった。向こう岸から見た景色を、知らなかった」
「今からでも知ることができます」とミナは言った。「渡し場は、いつでも渡れます」
ナギは立ち上がった。
「いつか、渡るかもしれない」と言った。
「待っています」とミナは言った。
ナギは兵と老人を連れて、北へ去った。
馬蹄の音が、遠ざかった。
渡し場に、静けさが戻った。
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「終わったのか」とハルは言った。
「終わっていない」とミナは言った。「しかし、今日は続く」
「続く」
「渡し場が続く」とミナは言った。「それで十分だ」
ハルは川を見た。
水が流れていた。こちら側と向こう側の間を、ただ流れていた。
「ミナ」とハルは言った。
「何」
「常火へ、また行こう」とハルは言った。「今度はゆっくり」
「ゆっくり行こう」とミナは言った。
「向こう岸の里も、見せたい」
「見たい」
「母にも、紹介したい」とハルは言った。
ミナはハルを見た。
「紹介してくれるのか」
「したい」とハルは言った。「渡し場の番人を、母に紹介したい」
「喜んでくれるか」
「喜ぶと思う」とハルは言った。「背が小さかったが、目が温かかった。きっと喜ぶ」
ミナは川を見た。
橙と金の夕暮れが、川を染めていた。
「行こう」とミナは言った。「今日は行けないけど。でも、いつか必ず」
「必ず」とハルは言った。
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その夜、渡し場に二人がいた。
ムロが向こう岸から舟を出してきた。
桟橋に着けて、川を見た。
「軍は引いたか」と言った。
「引きました」とミナは言った。「討伐令も取り下げます」
「そうか」とムロは言った。「良かった」
「ムロさんのおかげです」とハルは言った。「常火を見せてくれたおかげで、二人でここにいる意味が分かった気がします」
「私のおかげではない」とムロは言った。「あなたたちが、選んだからだ」
「選び続けた」とミナは言った。
「そうだ」とムロは言った。「選び続けることが、続くことだ」
三人はしばらく、川を見ていた。
夜の川が流れていた。
「ムロさん」とミナは言った。「常火は、今も燃えていますか」
「燃えている」とムロは言った。
「いつまで燃えますか」
「あなたたちが選び続ける限り」とムロは言った。「それだけだ」
「私たちがいなくなっても」
「次が来る」とムロは言った。「五百年、そうだった。次の巡りにも、来る。必ず来る。選んで、ここへ来る」
ミナはハルを見た。
ハルもミナを見た。
「次の巡りにも」とミナは言った。
「選んでくれるといい」とハルは言った。「今の俺たちと同じように」
「選ぶ」とミナは言った。「今の私が選ぶように、次の私も選ぶ。そういう気がする」
ムロは深く頷いた。
「行く」とムロは言った。「常火の傍で眠る。歳をとると、あそこが一番温かい」
「おやすみなさい」とミナは言った。
「おやすみ」とムロは言った。
舟が、向こう岸へ離れた。
夜の川を、舟が進んだ。
ムロの金色の目が、遠ざかって、消えた。
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二人は桟橋に並んで座った。
川が流れていた。
星が出ていた。
「ミナ」とハルは言った。
「何」
「この巡りで、良かった」
「この巡りで?」
「お前がいる巡りで、良かった」とハルは言った。
ミナは川を見た。
「私も」と言った。「この巡りで、良かった。あなたがいるから」
二人は並んで、川を見ていた。
水が流れていた。
夜が続いていた。
どこか遠くで、常火が燃えていた。
橙と金で。
消えずに。
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朝が来た。
霧が出ていた。
ミナは桟橋の板を拭いた。
「また拭いてる」とハルが言った。舟を桟橋に着けながら。
「拭かなくていい。どうせ濡れる」
「濡れる前に拭くのが仕事だ」とミナは言った。
「誰がそう決めた」
「私が決めた」
ハルは舟から上がった。
ミナの隣に立った。
「今日は誰か来るか」とハルは言った。
「来る気がする」とミナは言った。「霧が出ている日は、来ることが多い」
「怖くなくなって、渡ろうとする者が出てくる」
「そうだ」
「今日も渡すか」
「渡す」とミナは言った。「渡すのが仕事だから」
霧の中に、向こう岸の輪郭があった。
川が流れていた。
渡し場に、朝が来ていた。
誰かが、川のこちらから向こうへ向かって来るかもしれなかった。
誰かが、向こうからこちらへ渡ってくるかもしれなかった。
番人は、待っていた。
今日も、渡すために。
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(第十話 了)
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# 鬼の渡し場――境界の唄 完
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