第一話「渡し場の朝」
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霧が出ていた。
川幅は広くなかった。大人が十歩も踏み出せば、向こう岸に届く。しかし誰も踏み出さなかった。踏み出せなかったのではない。踏み出さない、と決めていた。
川のこちら側は、人間の土地だった。
向こう側は、鬼の土地だった。
その境に、渡し場があった。
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ミナは朝から桟橋の板を拭いていた。
板はよく乾いていた。昨夜は雨がなかった。拭く必要はなかった。しかし拭いた。手を動かしていないと、落ち着かない性質だった。
「また拭いてる」
声がした。
川の上流から、丸木舟が一艘、ゆっくりと近づいてきた。舟を漕いでいるのは、若い男だった。二十代の初めか、それより少し上か。黒い髪に、左の耳だけが人間のものより少し尖っていた。気づかなければ分からない程度に。しかし知っていれば、分かった。
ハルだった。
「拭かなくていい。どうせ濡れる」
「濡れる前に拭くのが仕事だ」とミナは言った。
「誰がそう決めた」
「私が決めた」
ハルは舟を桟橋に着けた。縄を杭に結んだ。舟から上がりながら、ミナの隣に立った。
「今日は誰か来るか」とハルは言った。
「分からない。でも来る気がする」
「気がする、というのは」
「霧が出ている日は、来ることが多い」とミナは言った。「霧が出ると、向こう側が見えなくなる。見えなくなると、怖くなくなる。怖くなくなると、渡ろうとする者が出てくる」
「なるほど」とハルは言った。「怖くなくなると渡る、というのは——人間の方が、という意味か」
「人間の方が、という意味だ」
「鬼の方は」
「鬼は霧でも晴れでも来る。怖いというより、用がある時に来る」
ハルは川を見た。霧の中に、向こう岸の輪郭がかすかに見えた。
「今日は用がある鬼が来るか、怖くなくなった人間が来るか」とハルは言った。
「どちらでもいい」とミナは言った。「来た者を渡す。それだけが仕事だ」
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渡し場の仕事は、渡すことだった。
川のこちらから向こうへ、あるいは向こうからこちらへ。人間を渡すこともあり、鬼を渡すこともあった。ただし、渡せる者と渡せない者がいた。
渡せない者というのは、悪意を持った者だった。
悪意の定義は難しかった。しかしミナには分かった。生まれた時から渡し場の傍で育ち、十年以上番人をしていれば、顔を見た瞬間に分かった。この者は渡してはいけない、という感覚が来た。その感覚は外れたことがなかった。
「ミナ」とハルは言った。「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は、鬼が怖くないのか」
ミナはハルを見た。
「怖い」と言った。「鬼は怖い。しかし」
「しかし?」
「怖いことと、渡せないことは別だ」
ハルは少しの間、ミナを見ていた。
「俺のことは」とハルは言った。「怖くないのか」
「怖くない」とミナは言った。
「なぜ」
「悪意がないから」とミナは言った。「悪意がある者だけが、怖い。あなたは悪意がない。だから怖くない」
ハルは川を向いた。
「半鬼だぞ」と言った。「こちらでも向こうでも、まともに扱われない。お前は気にしないのか」
「気にしない」とミナは言った。「渡し場には、こちらでも向こうでもない場所が要る。そういう者がいる場所が」
「俺がそれか」
「あなたがそれだと思っている」とミナは言った。「違うか」
ハルはしばらく黙っていた。
霧が少しずつ、晴れてきた。向こう岸の木立が、輪郭を取り戻し始めた。
「違わない」とハルはやがて言った。
「では、仕事をしよう」とミナは言った。
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最初に来たのは、人間の老婆だった。
腰が曲がっていた。手に竹の杖を持っていた。風呂敷包みを背負っていた。
「向こうへ渡してくれ」と老婆は言った。
「何の用で」とミナは聞いた。
「娘がいる」と老婆は言った。「鬼と一緒になった娘が。孫が生まれたと聞いた。会いに行く」
ミナは老婆を見た。
目が澄んでいた。悪意はなかった。
「渡れます」とミナは言った。
ハルが舟を出した。老婆を乗せて、川を渡った。霧の残る川面を、舟がゆっくりと進んだ。
向こう岸に着いた時、老婆は振り返ってミナに頭を下げた。
ミナは頷いた。
次にやってきたのは、若い鬼だった。
人間の形をしていたが、肌の色が薄く青みがかっていた。目が金色だった。腕が人間より長かった。
「こちらへ渡してくれ」と鬼は言った。
「何の用で」とミナは聞いた。
「薬を買いに来た」と鬼は言った。「里で病が出た。人間の里に売っている薬が要る」
ミナは鬼を見た。
焦りがあった。しかし悪意はなかった。
「渡れます」とミナは言った。
帰ってきたハルが、鬼を乗せて、また川を渡った。
ミナは桟橋から、舟の行き来を見ていた。
川が流れていた。霧が晴れていった。向こう岸と、こちら岸が、はっきりと見えるようになった。
二つの世界が、川を挟んで向き合っていた。
その境に、渡し場があった。
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昼を過ぎた頃、ハルが戻ってきた。
舟を結び直しながら言った。「老婆の孫は、何色の目をしているんだろう」
「人間色か、鬼色か」とミナは言った。
「あるいはどちらでもない色か」
「どちらでもない色だったとして」とミナは言った。「その子はどこで育つんだろう」
「向こうか、こちらか」
「あるいは」とミナは言った。「渡し場か」
ハルはミナを見た。
「渡し場で育つ、というのは」
「こちらでも向こうでもない場所で育つ、ということだ」とミナは言った。「私がそうだった」
「お前が?」
「この渡し場で生まれた」とミナは言った。「父は人間で、母は——よく分からない。人間ではなかったが、鬼でもなかった気がする。だから私は、こちらでも向こうでもない、渡し場の生まれだ」
ハルは少しの間、ミナを見ていた。
「知らなかった」と言った。
「言う必要がなかった」とミナは言った。「しかし、あなたには言っておくべきだと思った」
「なぜ」
「同じだから」とミナは言った。
ハルは川を見た。
水が流れていた。どちらの方向へとも、ただ流れていた。
「同じ、か」とハルは言った。
「同じだと思う」とミナは言った。「どちらでもない者同士が、この渡し場を守っている。それが、この場所の形だと思う」
ハルは何も言わなかった。
しかし、桟橋の端に腰を下ろした。
ミナも隣に腰を下ろした。
川が流れていた。
こちら岸と向こう岸の間で、水が流れ続けていた。
「明日も来るか」とハルは言った。
「来る」とミナは言った。「あなたは」
「来る」とハルは言った。「来る理由ができた」
「何の理由だ」
「同じ者がいる、という理由だ」とハルは言った。
ミナは川を見た。
「それは」とミナは言った。「理由になるか」
「なる」とハルは言った。「今日からは、なる」
夕暮れが、川を染めた。
橙と金の色が、水面を渡っていった。
ミナはその色を見た。
知っている色だ、と思った。
なぜ知っているかは、分からなかった。しかし、知っていた。
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(第一話 了)




