嘘の上塗りと底なしの沼
早朝のグラウンドの中央。
美少年に身をやつした俺は、目の前でうっとりと微笑む翔子の姿を見て、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
(……翔子、こんなやばいやつだったのか)
「宝塚隆史」という完成されたイケメンをあっさり捨て、未完成な美少年の弟(俺)を自分が一から育てて完成させると豪語する狂気。
芸術家気質だとは知っていたが、ここまでタガが外れるとは思わなかった。
いっそ「宝塚隆史」という存在自体をフェードアウトさせて逃げることも考えた。
しかし、よく考えれば致命的な問題がある。
彼女は、俺(隆史)の下宿先を知っているのだ。
このまま姿を消したところで、いずれ本物の「小野隆史」のところにたどり着くかもしれない。そうなれば、浮気と嘘がバレて完全な身の破滅だ。
警察に保護してもらえばいい、という考えも一瞬頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
この「美少年の弟」には当然ながら戸籍がない。
しかも、警察で保護されている間に二十四時間の制限時間が来て変身が解けたら、元の小野隆史に戻ってしまう。
そんな怪奇現象を起こせば、警察沙汰どころか研究機関送りだ。
つまり、逃げ道は完全に塞がれている。
「ねえ、弟くん」
不意に、翔子が顔を近づけてきた。
「きみ、さっき『付き合ってください』って言ってたよね?」
ほぼ背の高さは同じはずなのに、なぜか上から覗き込まれているような、圧倒的なプレッシャーがあった。
その熱を帯びた瞳の奥には、獲物を逃がさない肉食獣の光が宿っている。
やばい。
このままでは本当に、彼女のアトリエに監禁されて飼育される未来しか見えない。
「い、いや……! やっぱり、年は近いほうがいいですよね」
俺は慌てて距離を取り、引きつった笑いを浮かべた。
「ほら、隆史兄ちゃんと付き合ったほうがいいですよ。僕、まだ中学生だし……」
「関係ないわ」
翔子は即答した。
彼女の瞳に、迷いは一ミリもなかった。
「芸術と愛に、年の差なんて関係ないのよ」
(芸術って言っちゃってるよ! 完全に俺のこと『素材』として見てるじゃん!)
俺は必死に頭を回転させ、常識という名の防衛線を張る。
「でも、お父さんとお母さんに説明しなくちゃならないし……! 正式に付き合うなら、そういう手順が要るでしょ? だ、だから、ね。最初は『友達から』でお願いします……!」
中学生らしい、健気で常識的な提案。
これなら、いくら翔子でも踏みとどまるはずだ。
翔子は少しだけ目を丸くし、それから「……そうねぇ」と楽しげに唇に指を当てた。
「ご両親への説明。うん、そういう真面目なところも可愛いわ」
(通じた……!)
「でも、その前に」
翔子の声が、ふっと一段低くなった。
見上げた彼女の目が、笑っていない。
いや、笑っているのに、奥の奥がひどく冷たく、そして怖い。
「あなた、名前は?」
「えっ」
「まさか、あの人と同じ『宝塚』なんていう、ちょっと恥ずかしい名前じゃないわよね?」
(俺の最高傑作のネーミングセンスをちょっと恥ずかしいって言うな!)
内心でツッコミながらも、俺は強烈な尋問のプレッシャーに冷や汗を噴き出した。
名前。しまった、弟の設定を作っておきながら、名前を考えていなかった!
「ぼ、僕は……っ」
頭の中で、知っている名前を猛スピードで検索する。
自分の本名である小野はダメだ。松岡もダメだ。
「山本……! 山本、秀です」
とっさに口を突いて出たのは、友人の名前を合成しただけの仮名だった。
「山本……秀くん」
翔子は、その名前を舌の上で転がすように呟いた。
「てことは、お兄さんは『山本隆史』なのね」
「う、うん。まあ、そんなところです」
「ふふっ、ありそうな名前。でも、あの顔のイメージとはちょっと違うわね」
翔子はクスクスと笑い、俺の仮名をあっさりと受け入れた。
(よし、乗り切った……!)
安堵の息を吐きかけた、その直後だった。
翔子は逃げようとする俺の腕を、再びがっしりと掴んだ。
「じゃあ、山本秀くん」
優しく、けれど絶対に逃がさないという重い声色。
「学校は、どこの学校?」
「…………」
俺の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。
(学校!? 中学生の通う学校なんて、近所の公立中学くらいしか知らないぞ……! 適当な名前を言ったら、絶対に後で調べられる!)
終わった。
防衛線を張るつもりが、自らの嘘によって次々と外堀を埋められ、退路を断たれていく。
早朝のグラウンドの中心で、俺は「ホラー」という名の底なし沼に、首までずっぽりと浸かっていることを悟った。




