第35話:氷が溶けたあとの、眩しい温度
お風呂場でのハプニングにより、朝陽のTシャツを借りることになった凛ちゃん。「落ち着くから」と、その姿のままマッサージが始まります。
いつも通り、誠実に彼女の疲れを癒やそうとする朝陽でしたが、一通のメッセージが二人の空気を一変させます。
僕のTシャツを着た凛を前に、僕は雑念を振り払うように指先に力を込めた。
お風呂上がりの熱が冷めないうちに、今日は午後から仕事を詰め込んだ彼女の手と肩を、念入りに解していく。
「……あ、そこ、気持ちいい……」
凛の小さな吐息が漏れる。僕は下心を持たないよう、ただ誠実に、一人の「絵師」としての彼女を労うことだけに集中した。その時、彼女の傍に置いてあったスマホが、短く震えた。
画面を覗かないよう、僕はそのままマッサージを続けようとした。だが、通知を確認した凛が、ピタリと動きを止める。そして、ジトッとした目で僕を振り返った。
「……朝陽くん」
「ん? なんだ?」
「……今日、誕生日って、ホント?」
「……なんでそれを」
「陽菜ちゃんからメッセージ。廊下で大輝くんたちにおめでとうって言われてる朝陽くんを、目撃したんだって」
佐藤さん……。凛の親友の。見られていたか…。
(瀬戸くんって今日誕生日らしいよーー)という文面が、僕の視界の端をかすめる。
「……別に隠してたわけじゃないよ。今朝、大輝たちに言われるまで僕も忘れてたくらいだし」
「……っ、そんな! 私、プレゼント用意してないよ……!」
凛はパニックになったように声を上げた。
僕は「あまり誕生日に思い入れないから気にしないで」と宥めるが、それが逆に彼女の火をつけてしまった。
「……私が、祝いたいの! 明日の午後、予定空いてる?」
「空いてるけど……」
「なら、決まり! 私は午前中で仕事を終わらせるから。午後、プレゼントを一緒に買いに行こう。変装するからバレないし、……朝陽くんが欲しいもの、一緒に選びたいの」
「……そういうのは、大切な人と行くものです。」
つい、いつもの癖で自分を卑下するような言葉が出た。
だが、次の瞬間。凛が僕の左腕を、優しく、けれど拒絶を許さない力強さで掴んだ。
「誕生日って、産まれたことを祝う日でしょ? そこには恋人も友達も関係ないよ」
凛の瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。
「……朝陽くんは一度、死を選んだけど。朝陽くんが今、こうして生きていてくれたから……今の私があるんだよ。朝陽くんが料理を作って、私を支えてくれてるから、私は絵を描いていられるの」
いつもの「氷の令嬢」の面影なんて、どこにもなかった。
そこにあるのは、ただ懸命に僕という存在を肯定しようとする、一人の暖かい少女の姿。
「だから……拒否権はありません! 素直に祝われなさい!」
「………………ありがとう」
その眩しさに、僕はもう、逃げる言葉を見つけられなかった。
「誕生日おめでとう、朝陽くん! これからもよろしくね!!」
「……おう。こちらこそ」
最高の雰囲気だった。
凛の笑顔は、暗い部屋の中でそこだけ光が差しているかのように輝いて見えた。
けれど。
――ぐぅ〜〜〜〜っ。
静かな部屋に、凛の可愛らしいお腹の音が盛大に響き渡った。
「…………っ!」
凛の顔が、真っ赤に染まっていく。
僕は思わず、吹き出してしまった。
「……最後が締まらないな、凛」
「……うるさいっ! 打ち上げの鍋、美味しくて消化が早かったの!」
恥ずかしさにのたうち回る凛を見て、僕は笑いながら立ち上がった。
「夜食、作るよ。さっきのミルフィーユ鍋のスープが残ってるから、春雨スープにしようか」
「……食べる」
二人で並んで、熱い春雨スープを啜る。
鍋の旨みが凝縮された出汁が、空腹に優しく染み渡っていく。
「明日は……帽子と伊達メガネでいいかな。それならバレないと思う」
「わかった。無理して午前中に仕事終わらせるなよ?」
「大丈夫、朝陽くんのためなら余裕だよ」
そんな会話をしながら、明日の「誕生日プレゼント買い出し作戦」の予定を立てる。
スープを飲み終える頃には、凛も落ち着いたようで、自分の部屋へと戻っていった。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。
誕生日。思い入れのなかったその日が、彼女の言葉一つで、こんなにも特別な色に染まるなんて。
最高に眩しくて、少しだけ騒がしい、夏休み初日の幕が上がろうとしていた。
第35話をお読みいただき、ありがとうございました。
朝陽くんが一度捨てようとした命を、今の凛ちゃんが全力で肯定する。その「温度」に、朝陽くんの心も少しずつ解けているようです。
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