第224話:節度と、寝起きのバックハグ
「……あの、おばあ様。もしよろしければ、朝ごはん、召し上がっていきませんか? これから作るところですので」
「節度」という言葉のプレッシャーから逃れるように、俺は慌てて提案した。
このまま向かい合って座っていたら、昨夜の罪悪感から自らボロを出してしまいそうだったからだ。
「あら、いいのかしら? 友達と会うまで少し時間があったから、コンビニで済ませようと思っていたのよ。瀬戸さんの手料理をいただけるならお願いしたいわ」
「分かりました。少々お待ちくださいね」
俺は足早にキッチンへ向かった。
冷蔵庫から食材を取り出して朝食の準備に取り掛かった。
メニューは炊き立てのご飯、豆腐とわかめの味噌汁、出汁巻き卵に鮭の塩焼きだ。
おばあ様はリビングのソファに深く腰掛け、俺が入れたお茶を飲みながらテレビの朝のニュース番組を眺めている。
トントン、と包丁でネギを刻む音が響く。
料理に集中していると、さっきまでの動揺も少しずつ落ち着いてきた。
やっぱりキッチンに立っている時は落ち着く。
鮭の焼ける香ばしい匂いが漂い始め、出汁巻き卵を巻き終えようとした、その時だった。
『ガチャッ』
玄関の鍵が開く音が、静かな部屋に響いた。
俺はピタッと手を止めた。
(……凛だ)
時刻は八時前。
休日にしては少し早い。
俺が部屋にいないことに気づいて合鍵で入ってきたのだろう。
(頼むから、おばあ様がいることに気づいてくれよ。不用意な真似はするなよ……!)
俺は火から手が離せず、フライパンを握ったままリビングの入り口へ祈るような視線を向けた。
リビングのドアがゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、少し乱れた髪に、昨夜俺の理性を散々削り取った『もこもこパジャマ』姿の凛だった。
目は半分しか開いておらず、明らかにまだ半分寝ている。
本来なら、ドアを開けて一番初めに目に入るのは、正面のソファに座っているおばあ様のはずだ。
しかし、完全に寝ぼけていた凛は、正面を一瞥することもせず、部屋に入るなり左を向いてキッチンに立つ俺だけをロックオンした。
「あさひくぅん……」
とろんとした声のまま、凛はふらふらとキッチンスペースへ入り込んでくる。
「ちょ、凛……待っ……!」
俺の小さな制止も聞かず、凛は俺の背後に回り込み、そのまま腰に腕を回してきた。
「……いい匂い。朝陽くん、おはよぉ……」
背中に頬をすりすりとおしつけながら、微睡んだ声で挨拶をしてくる。
これ以上ないほど自然で、無防備なバックハグだった。
俺の短い人生が、今ここで終わった音がした。
「…………あらあら」
リビングから、上品で、しかし誤魔化しようのない声が聞こえた。
おばあ様がテレビから視線を外し、キッチンで俺に抱きついている凛のことを、これ以上ないほどの満面の笑みで眺めていた。
「り、凛!! ソファを見ろ!!」
「……んぇ? なぁに……?」
凛が、俺の背中に顔を埋めたまま、ゆっくりと首を回してリビングのソファを見た。
「…………えっ?」
凛の動きがピタリと止まった。
半分閉じていた目が限界まで見開かれ、みるみるうちに顔が真っ赤になり、耳の先まで朱に染まっていく。
「……お、おばあちゃん……っ!?」
「おはよう、凛。……ふふ、『節度』を持った、とっても仲の良いお付き合いをしているみたいね。瀬戸さん?」
おばあ様が、優雅にお茶を啜りながら俺に問いかける。
俺は背中に張り付いたまま石化している彼女を感じながら、空になったフライパンを見つめて静かに息を吐いた。
「…………はい。保っている『つもり』……でありました」
沈黙する俺たちを見て、おばあ様は小さくため息をつき、凛に向かってピシャリと言い放った。
「こら、凛。ご飯を作っている時に背中から抱きつきに行ったら危ないでしょう。くっつくなら、せめて横にいるまでにしなさい」
「……は、はい。ごめんなさい……」
(……いや、くっつくこと自体はダメとは言わないんだな)
俺は心の中でそっとツッコミを入れながら、とりあえず火を止めて朝食の配膳に取り掛かった。
それから数分後、三人で食卓を囲んで朝食が始まった。
並んで座る俺と凛の向かいに、おばあ様が座っている。
凛はさっきの失態のせいで、すっかり借りてきた猫のように小さくなっていた。
「凛、後でお話がありますからね」
味噌汁を一口飲んだおばあ様が、ふと真面目なトーンで切り出した。
ビクッ、と凛の肩が揺れ、さーっと顔が青ざめていく。
「は、はい……」
「お話はご飯が終わった後よ。……それにしても瀬戸さん、このご飯、本当に美味しいわね。お出汁がしっかりと効いていて」
「ありがとうございます。お口に合って良かったです」
おばあ様はニコニコしながら鮭に箸を伸ばし、隣で固まっている凛の顔を見て目を細めた。
「凛、顔色もとても良いし、痩せ細ることもなく、ちゃんとしっかり栄養が取れているみたいね。安心したわ」
「あ……うん。朝陽くんのご飯、すっごく美味しいから」
おばあ様の具体的な褒め言葉に、凛は少しだけホッとしたように頬を緩めた。
朝食が終わった後、俺は「片付けは俺がやりますから」と言ってカウンターキッチンで食器を洗い始めた。
「さて、凛。お話の時間よ。こっちにいらっしゃい」
「……はい」
おばあ様がリビングのソファをポンポンと叩き、凛を隣に座らせる。
水の音越しでも、その会話は俺の耳にちゃんと届いていた。
「……それで、瀬戸さんとはうまくやっているのね?」
「うん。……昨日、学校でね、朝陽くんが私を庇ってくれて」
「聞いたわよ。腕を無理やり掴まれたそうね。本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。朝陽くんがすぐに冷やしてくれたし、もう全然痛くないよ」
おばあ様が凛の腕をそっとさすっているのが見えた。
「そう。瀬戸さん、本当に頼りになるわね。……でも凛、さっきも言ったけれど、火を使っている時にくっつくのは危ないから気をつけなさい。瀬戸さんが優しいからって、時と場所を考えずに甘えすぎないようにね」
「う、うん……わかってる」
凛が恥ずかしそうに下を向く。すると、おばあ様は少しだけ声を潜め、くすくすと笑いながら付け加えた。
「決して甘えるのがダメと言っているわけじゃないのよ。……それに、瀬戸さんだって甘えたい時があるかもしれないんだから、その時はあなたがしっかり甘えさせてあげなさい。」
「お、おばあちゃん……っ!」
キッチンで皿を洗っていた俺の手がピタリと止まる。
(……その話は、俺も聞かなかったことにしておこう)
俺はわざと少しだけ水道の水の勢いを強めて、耳まで赤くなっているであろう自分の顔を隠した。
「さて、そろそろ友達の待ち合わせに向かうわね」
お茶を飲み終えたおばあ様が立ち上がった。
俺は手を拭いて、急いでキッチンから出てきた。
「瀬戸さん、今日は突然お邪魔してしまってごめんなさいね。とっても美味しい朝食をごちそうさまでした。朝から良いものをいただいたわ……いろんな意味で、ね」
「い、いえ、こちらこそ何もお構いできずすみません……」
『いろんな意味で』の部分で含みのある笑顔を向けられ、俺は苦笑いを返すしかなかった。
おばあ様は俺の顔を見て、それから凛の顔を見て、優しく微笑んだ。
「凛のこと、これからもよろしくお願いするわね。……でも、あまり羽を伸ばしすぎないように、二人ともちゃんと『節度』を忘れないでね?」
「「……はいっ」」
最後の念押しに、俺と凛は背筋を伸ばして同時に返事をした。
凛はまだもこもこパジャマ姿だったので部屋に残り、俺がおばあ様と一緒に一階のエントランスまで降りて見送ることにした。
「それじゃあ、またね。凛にもよろしくね」と手を振って歩き出すおばあ様の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、俺は二階の部屋へと戻った。
『ガチャッ』
ドアを開けて玄関に入ると、リビングの入り口で凛が待っていた。
彼女は俺の顔を見るなり、タタタッと駆け寄ってきて――。
「朝陽くんっ、おはようのやり直しっ!」
勢いよく、今度は正面から思いっきりハグをしてきた。
俺は少しよろけそうになりながらも、その細い体をしっかりと受け止めた。
「……はいはい。おはよう、凛」
腕の中で「ぎゅー」と抱きついてくる彼女の頭を、優しく撫でる。
嵐のようにおばあ様がやってきて、寿命が縮むような一日が始まったけれど。
(まあ、たまにはこんな賑やかな朝もありかな)
俺は少しだけ呆れながらも、休日の朝の穏やかな空気に身を委ねた。
第224話、ありがとうございました!




