第三十話:奇跡の行く末は地獄の縁
枯れた井戸の底――そこが、クロの始まりだった。
底から見上げた夜空は、途方もなく深く、ただ暗かった。光というものはどこにもなく、あまりにも哀しい幕開け。
ライセは、言い知れぬ神妙な心持ちで、その場に立っていた。いや、まるで世界に溶け込んだような、あるいは、現し世に隣接する別の相に身をおいているような奇妙な感覚を覚える。
何より、自身の輪郭が捉えられない。手を見ても形がなく、ただ存在しているというだけの不思議な感覚があった。
それでも、確かに“感じていた”。クロが生まれ落ちるその瞬間を、俯瞰、あるいは“経験”していたのだ。
「いやはや、君の精神力には脱帽するよ。普通なら彼の肉体の内に収まるはずなのに...まぁ概ね巧くできているね」
その声は、どこからともなく響いてきた。姿は見えないが、この世界に彼を招いた張本人――ザムザのものだと、ライセにはわかった。
言葉を発するというよりは、念じることで言語が伝わってくる。
ライセもまた、自分の意志を脳内で“投げかける”ことで返すことができた。
「ここは?」
「言っただろ、君には彼の過去を体験してもらうと」
「過去に戻った…?」
「そんな、だいそれた芸当は僕にはできないかな。ここは彼の、彼でさえ知ることのない深層記憶だよ。ほら、見てご覧なさい」
ザムザが“指し示す”方向に、自然と意識が向かう。自分の意志ではない。だが拒めない。
そのわずかな強制力に、ライセは微かな不快を覚えた。
目の前に広がっていたのは、闇のなかで響く小さな産声。そして、その声をやさしく抱きしめる一人の女の姿。
――美しかった。
その身に夜を宿したような、静謐な美しさ。
ライセは、直感的に悟った。
この夜が明けることはないのだと。彼女は、もうまもなく命を落とす。
母親自身もそう悟っていたのだろう。彼女は瞳に溢れんばかりの涙で濡らしながら、全身全霊の愛を、息子――クロに注ぎ込んでいた。
額を重ね合わせ、頬に、耳に、首筋に。何度も、何度も口付けを繰り返しながら。
「■■■ ■■■■■■ ■■■……」
何かを呟いている。しかし、ライセにはその言葉の意味がまったく理解できなかった。
まるで迷路を抜けるための地図を失ってしまったような、そんな喪失感があった。
「当然だよ。僕は彼の記憶を糧に世界を構築しているのだから。生まれたての本能的な人間に、暗黙的な了解である言語が理解できる訳がないじゃないか。それでも…」
「名前を呼んでいる」
「きっとそうだね。とても美しい瞬間だよ。」
「ここが何処だか見当はつくかい?」
「……不毛の地。アクタスか」
「あぁ、今はそのような呼ばれ方をしているんだったね。そう、黒髪はアクタス人の特徴だからね」
「アクタス人...」
アクタス――それは、人類に見放された国だった。
かつては、魔王列強と渡り合うほどの大国。その国力を支えていたのは、圧倒的な魔法技術、そして民に備わった魔法への適性の高さだった。
アクタスの人間は、まさに魔法に“愛されて”いた。
彼らの存在すべてが魔法と共鳴し、たとえば髪の毛一本ですら、神話級の触媒となりうる。宝具に匹敵する価値を宿していた。
――だが、それも今は昔の話だ。
王家を襲った連続の不幸。災厄、疫病、そして裏切り。
売国的な裏切りが国を蝕む中、魔王ガルガンが復活する。
瞬く間にアクタスの大地は魔王の支配下に置かれた。
ついには、アクタス王家に代々伝わる秘宝がガルガンの手に渡る。
それはアクタス人の尊厳そのものを掌握されることと同義だった。
そして、その日を境に――
アクタス人は、“人間”としての立場を失った。
魔物にとっての愛玩種として、飼われる存在へと堕ちていった。
さらに皮肉なことに、アクタス人を魔物へと売り捌いたのは、隣国の者たちだった。
その行為は、隣国にとって莫大な経済効果をもたらす。
朝が来れば、人攫いや奴隷商人から身を隠し、夜になれば、魔物の群れに見つからぬよう息を殺して生きる。
それが、アクタスの日常となった。
人類は天秤にかけたのだ。
アクタスを救うことで得られる“正義”と、アクタスを魔物に売ることで得られる“利益”とを。
そして、人類は後者を選んだ。
西大陸の諸国では、アクタス人はいつしか「人になりそこねた劣等種」と呼ばれるようになった。
だからこそ、魔王の支配から彼らを救うことに、意味はないとされた。それこそ“不毛”なことだと。
それが――
アクタスという、東西の大陸を結ぶ小さな島国の、失われた輪郭だった。
「あ…」
思わず、ライセは声を漏らした。
クロの母親が、静かに――あまりにも静かに、息を引き取ったのだ。
「彼女の今際の際での行動には、全くを以て敬意を抱くほかないよ」
ザムザの言葉が、虚空に染み込むように響く。
ライセは言葉を返せなかった。目の前の光景が、あまりにも尊く、そして哀しかったからだ。
「君は不思議に思わないかい? あの産声を、魔物たちが聞き逃すと思えるかい?」
「……静寂の呪いか」
そう呟いたとき、ライセの視界に蒼白い羽衣が揺れた。
骸と赤子を包むように、静かに、優しく、それは覆いかぶさっている。
その羽衣には、いかなる音も通さない性質――魔法による音の遮断がかけられていた。
「愛だよ。愛のなせる奇跡としか思えない」
「どういう意味だ」
「出産っていうのは、ある種の奇跡だ。命がけのね。
君たちの基準で言えば、あの四方の魔女だって、出産直後には単純魔法すら扱えなくなる。
それに、彼女は牙を抜かれたアクタス人だ。本来なら魔法なんて、使えるはずがないはずなのに」
ザムザの声が、ひどく静かだった。その沈黙を打ち破るように、最後に囁かれる。
“ただ――奇跡が、必ずしも良い方向に流れるとは限らない。
少なくとも彼は、地獄を見ることになるからね。暫くは、一人で楽しむといいさ”
「おい、待て!! どういう意味だ!」
ライセが叫ぶ。しかし、その咆哮は虚空に散り、意味もなく霧消した。
そして気づけば、目の前には冷たくなった母の骸に身を寄せ、眠るクロの姿だけが残されていた。
夜が、去る。
井戸の底に、かすかな光が差し込んだ。
その逆光の中から、一人の人影が静かに降りてくるのが見えた。
光とは裏腹に、男の表情には不気味な笑みが浮かんでいた。
その笑みは人の形をしていても、人のものではなかった。
男は何やら母親の亡骸に向かってぶつぶつと呟きながら、
無造作に足で顔を踏みつけ、死体をずらした。
そして、赤子――クロを乱暴に動物用の籠に押し込むと、
母の髪を根元から切り取り、すべて懐に押し込んだ。
意味もわからず、眠りに落ちるクロ。
それに呼応するように、ライセの意識もまた、重く、深く、沈んでいく。
抵抗しようにも叶わない。耐え難い睡魔がすべてを奪っていった。
次に目を覚ましたとき――
鼻腔に潮の匂いが広がった。
ざらついた風が肌を撫で、どこか塩辛くて生ぬるい。
この船が奴隷商人のものであると理解するまでに、そう時間はかからなかった。
甲板では、荒くれた男たちが怒鳴り声を上げながら、忙しなく動き回っている。
その視線の先、船室入口付近――
そこには、檻に押し込められた女たちと子どもたちがいた。
まるで見世物のように、無造作に、価値を品定めされる品のように。
悲鳴も、声も、すでに彼女たちの中からは消え去っていた。
そして、その一方で――
クロはというと、船長席の隣。
例の井戸の底に降り立った、あの男のすぐ傍らにいた。
魔法が編み込まれた籠の中。
樽の上に置かれたそれは、何とも言えない神聖さすら帯びていた。
夜の気配を纏ったような純粋さ――
母親に似た面影を宿す赤子は、その美しさゆえに、奴隷として高値がつくのかもしれない。
ライセの胸に、嫌な予感がよぎった。
だが、次の瞬間――それは起きた。
船首が、天を仰ぐように突き上げられた。
振動と衝撃。
誰かが叫び、鉄が悲鳴を上げる音が響く。
座礁――
岩礁が船底を貫いたのだ。
だが、船が乗り上げた岩礁はあまりにも深く、鋭く、そして突然だった。
まるで「誰かの意思」がそこにあったかのように――ライセは直感した。
そして奇跡は連鎖する。
クロを乗せた籠が、宙に舞った。
甲板を跳ね、空を裂くようにして、海へ――。
奴隷商人が慌てて手を伸ばす。
だが、その腕ごと、飛んできた船の破片が喉元を貫いた。
呻きとともに、男の懐から飛び出したものがあった。
――黒髪。母の髪束。
それはふわりと宙を舞い、クロの入った籠の中に吸い込まれるように落ちた。
魔法の加護を受けた籠は、沈むことはなかった。
浮力を保ったまま、ぷかぷかと波間に揺れながら、赤子を乗せて漂っていく。
不思議なことに、海は静まりかえっていた。
風も波も荒ぶることなく、まるでこの小さな命を迎え入れるように、穏やかだった。
そして、奇跡は続く。
そう時間をおかずして――
クロの入った籠は、小さな州のような島影へと流れ着いた。
その瞬間だった。
籠が、黒煙を上げて砕け散る。
組み込まれていた魔法が、漂着と同時に暴発したのだ。
煙とともに吹き飛ぶ木片。
その中に、ぽつんと取り残された無垢な赤子。
まるで、世界が――
この子を試しているかのような、そんな情景だった。
砕けた音を聞きつけたのか、
島の茂みの奥から、何かが現れる。
――二匹の鬼だった。
灰を被ったように煤けた顔に、妙な笑みを浮かべながら、鬼たちはじっと赤子を見下ろしている。
赤子は、必死に腕や足をばたつかせながら、意味もわからぬまま空を掴もうとしていた。
ライセは、その光景に息を呑んだ。
あまりに絶望的な場面。
その身を裂かれるような予感に、思わず目を伏せたくなった。
だが――
これは記憶だ。
強制的に流れ込んでくる情景を、ただ受け入れるほかない。
赤鬼が、ゆっくりと赤子へと手を伸ばす。
その大きな掌が、赤子の視界を覆った――
だが、次の瞬間に訪れたのは――
ざらついた肌の温もりだった。
赤鬼は、そっと赤子を抱き上げたのだ。
その仕草はどこか、不器用でありながらも丁寧だった。
もう一方の青鬼は、その様子を見つめていたが、やがて静かに近づき、赤鬼の肩にそっと手を添えた。
――青い雄の鬼。赤い雌の鬼。
ふたりは、番いなのだとライセは感じ取った。
皮肉だった。
クロが初めて知った人肌の温もりは、
人間のものではなかった。
――魔物の、鬼の手によるものだったのだ。




