Act 3-1 「ハルの脱出」
逃走回。
「どこだ!どこにいるんだ!?」
羽田さんの低音の声が徐々に狂気を帯び、下階から上階へと音の圧力が鼓膜を振動させる。
「双葉さん…羽田さんが戻ってきたってことは…。」
「言うな、きっと無事だって!」
恩人の正体が長髪の女性のみをターゲットに猟奇的殺人を行う外道だったという現実。その現実を半ば受け入れられないでいるも、ヒロの安否を気にせざるを得ない。
「上にいるのか?」
その一言。羽田さんのその一言で私は思わず呪いがかかったかのように体中が緊張し、固まってしまった。ここで私は無意識にも羽田さんが殺人鬼であることを肯定してしまっていることを自覚した。
「春美ちゃん!マズイ!上に来るぞ!」
双葉の囁くような、しかし荒々しい息づかいを孕んだ恐怖におののく声。さっきまでひょうひょうと軽口をたたいていた双葉がここまで動揺している姿を見て私は羽田さんへの恐怖を一層リアルなものと受け取った。
「とにかく4階だ!4階の非常階段から外へ出よう!そうすれば羽田と鉢合わずに外に出られる。」
そうと決まれば私たちは短距離走の合図のピストルが鳴ったかのように、同時に旅館の廊下を疾走する。
「この階と3階には非常口がないの?」
「4階以外はドアが壊れて開かないんだ、ここに来た時調べた!」
逃げ場を求め、瓦礫や虫の死骸など、何のお構いなく階段を上へ、上へと駆け上がる。その足音に反応したのか、羽田さんのものと思われる足を踏む音と音との間隔が狭くなり、殺人鬼が走って追いかけて来ているという恐怖のビジョンが浮かび上がる。
「春美ちゃん!先に行け!俺が時間を稼ぐ!」
4階へと続く階段の手前、双葉が突然の提案を放つ。このままだと非常階段を降りる際に追いつかれてしまうと判断したのだろう。
「でも…。」
「早く!もう来てる!」
時間にしてみれば、ほんの数秒、しかし春美の脳内ではあらゆる思考乱反射する光のように交錯し、とてつもなく長い時間に感じた。
一緒に逃げちゃ駄目なの?喰い止めるなら私も一緒に…。他に方法はないの?一瞬にして様々な言葉が頭に浮かび上がるも声にすることができない。
「ごめん…。」
私はただ一言を双葉に残し、一人4階へと昇りあがる。
駄目だな…何度も助けてもらってばっかり。
涙を浮かべ、無力な自分を恥じた。極限に追い詰められた自分自身の情けない行動にただただ涙を流す。こうなった以上は何があっても生き延びなければならない。
一度も振り返ることなく春美は非常階段へと続くドアへと真っすぐに走りを進める。
[非常口]とやや擦れた文字のプレートが掲げられた思い鉄製のドア。そのドアノブを握り、回し、手前に引き、開ける。外の陰鬱な空気が廃旅館内へと押し込まれる。
轟々と注がれる雨に晒された錆だらけの階段が懐中電灯の光に照らされ、露わになる。
双葉はこの非常階段が雨風で非常に脆くなっていて、ゆっくりと慎重に降りなければ危険であることを知っていたのだろう。
そんなことは知らずに羽田さんは非常階段を勢いよく降りてこちらに向かってくることは明らかだった。その為に双葉は私一人が安心して階段を降りることができるように時間稼ぎの提案をしたのだろう。下手をすれば非常階段が崩れ落ち、3人とも地面に激突という結果になりかねないからだ。
だけど老朽化した足場は、私一人の体重でも一歩踏み込めば抜けてしまうのではないかと思うほど脆くなっている、だけど双葉が命がけで作ってくれた時間を無駄には出来ない。私は覚悟を決め、階段の手すりを掴み、足を一段ゆっくりと降ろし、体重を乗せる。
とその時。
踏み板が外れる鈍い金属音。
私の体が重力に引っ張られた。
かろうじて外枠部分にしがみつき、落下は免れたものの、絶体絶命の危機には変わりはない。恐怖と雨に濡れたことで生まれたてのヤギのように震える両手が身を這い上げる行為の阻害となる。
そして絶望的状況をさらに駄目押すかのように非常階段全体がミシミシと音を立てて崩落を予告する。女性一人の体重なら問題ないと判断していた双葉の予想以上に、この階段は壊滅的状況にまで老朽化していた。
(後に判明した事だが、この漂流島の建造物は、島の急激な発展に合わせ、ほとんどが急ピッチで作られたのだと言う。いわゆる手抜き工事である。この廃旅館の非常階段はまさにその最たる代物だった。)
金属の階段と廃旅館のコンクリートの壁面とを繋ぐボルト部分がミシミシと音を立て剥がれていく。
もはやビスケットのようにボロボロになったコンクリートの破片が一つ、また一つと春美のはるか下方の地面に叩きつけられ発する音が、春美には死を宣告するカウントダウンのように聞こえた。
「誰か…っ!」
恐怖により圧倒され、声も上手く出てこない。よじ登ろうと力を入れるとその分階段が壁面から離れていく。打つ手無し。まさに将棋の詰み状態。
「ヒロ…ごめん。」
全てを覚悟したその瞬間、ついに階段の耐久力は限界を超えた。ビルの屋上から大型トラックが地面に叩きつけられたような金属の悲鳴と共に、非常階段は崩れ落ちる。
そのけたたましい轟音は島中に響き渡った。
30秒ほどの金属音の演奏が終わると何事も無かったかのように、再び雨音だけが島を包む。
不思議だ、私は非常階段が崩れる一部始終を見ている。
本来なら私は足元で無残にもガラクタと化した鉄くずの仲間入りをしているはずなのに。私は地面に落下することなく空に引っ張られ、宙に漂っている。
落ち着いて状況を確認してみると私は腕に確かな温もりがあることに気付く。その温もりは何度も感じたことのある信頼の温もり。ゆっくりと顔を上げ、その温もりの正体を確認した。
そこには夢でも幻でもない、待ち望んだ無二の存在がそこにいた。
「ハル!!」
私の右腕を掴んでいたのは他でもないヒロだった。間一髪のところで私は親友の手により死を免れた。
「ヒロ…!良かった…!生きてた!」
待ちに待った再開に自身の状況すら忘れて歓喜した。
「ハル!そっちの手も!早く伸ばして!」
ヒロは感動のシーンに浸るのは後回しにして!とばかりに声を張りあげる。ヒロの細腕では私を引っ張り上げることなど出来ない。このままでは折角の再開シーンで二人とも地面に激突してしまう。
渾身の力で左手を伸ばし、ドアの縁に手を掛けようとするが、ヒロのものとは明らかに違う、別の人間の手が伸び、私の左腕を掴む。
「春美ちゃん、今引き揚げるからな!」
その人物の顔を見て私は全身の血が逆流するような錯覚を覚えた。
「羽田さん…!? なぜ?」
合流。